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「気付いた人がやる」という謎ルール。海外には多分無い。
「気付いた人がやりましょう」
よく聞く言葉だ。
職場の流しの掃除。
午後の日差し除けのカーテン閉め。
無くなったコピー用紙の補充。
溜まったシュレッターくずの廃棄。
町内のゴミ置き場の掃除。
いろいろある。
こういうのは、当番制にでもなっていないと、全員に均等に仕事が割り振られない。
いや、当番制にしていたってサボる者が必ずいるから、公平にならない。
やる人はやるけど、やらない人はやらない。
たまりかねて話し合いの機会をもつ。
すると、必ず冒頭の言葉を言う者が出る。
これは100%、職場の流しを掃除したことが無いし、カーテンを閉めたことも無ければ、コピー用紙を補充した事も無ければ、シュレッターくずを捨てたことも無ければ、町内のごみ置き場をきれいにしたことの無い者が言う。
「自分はやりたくないし、これまでもやらなかったし、これからもやるつもりは無い。そもそも、気にすらしていないので、気付きもしない。じゃあ、誰か気付いた人がやればいいじゃん、自分はやらないけど」
――というわけだ。
海外には多分「気付いた人がやる」というこの謎ルールは存在していないのだと思う。
たとえば、日本は海外に比べて街が清潔できれいだ。
これは日本人の「気付いた人がやる」システムに支えられている面が大きい。
日本人のメンタルは、基本性善説だ。
だから周りに思いやりを示すし、お互いが相手のことを思って行動するのが当たり前となっている。
もちろん、そうじゃない日本人もいるが、協調性を重んじ、相手がどう感じるか忖度し、順番を守り、マナーを守り、ルールに従う多くの日本人によって、この日本の国の秩序は守られているのだ。
日本では学校で「相手の気持ちを考えて」ということをよく教えられる。
子ども同士でトラブルが起きれば、
「こういうことを言ったら、やったら、相手はどう思うか考えてみて?」
教員はこのように言って子どもに反省を促し、考える機会を与える。
こうして日本人は、協調性を重んじ、相手がどう感じるか忖度し、順番を守り、マナーを守り、ルールに従うことを覚えていく。
対して、外国人は真逆だ。
彼らが幼い頃から徹底的に叩き込まれるのは自己主張だ。
自分がどうしたいのかを表出できるようになることを徹底的に叩き込まれる。
多くの外国は侵略したりされたりの歴史をずっと繰り返してきた。
相手の言いなりになっていたら、家、土地、財産、権利、国、命まで取られてしまうという経験を先祖代々繰り返してきた。
そういった国の人々は、そういった目に遭わないためには決して相手の言いなりにならず、まずは自分の意志表示をすること、自己主張ができることが何より大事だということを学んで育つ。
だから、アメリカ人も中国人も韓国人も自分最優先である。
2024年1月2日に羽田空港で起きたような航空機事故がもし海外で起こっていたらというネットの記事や動画をいくつか観た。
海外の人々は、もし自分たちの国であんなことが起きたら、みんな人のことなど考えず、CAの言うことなど一切聞かず、誰も彼もが我先にと出口に殺到して多くの命が失われただろうと自虐的に書いていた。
これは誇張ではなく、おそらくあのような事故が起きたら多分そうだったのであろう。
実際、私も海外で、順番を守らない人、人の物を盗る人、嘘をつく人などに出くわしたことがある。
日本であれば考えられないことだが、海外ではそんなの当たり前。
人のことより、自分のこと。
自分が最優先。
自己主張せよ。
これが海外だ。
キリスト教の聖書には、「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」と書いてある。
黄金律だ。
海外にはキリスト教信者が多いが、「人にしてもらいたいことを人にもしている」人が多いようには見えない。
キリスト教信者の少ない日本人のほうこそ、むしろ、人にしてほしいことを、人にしているようだ。
欧米では、できている人が少ないからこそ、「人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい」と宗教を通して教えているのだろう。
できていないんだから、できるようになりましょうというわけだ。
だが、それって、もしかしたら日曜学校などの教会で、神父様や牧師様の話でたまに聞くだけのものなのかもしれない。
学校で子ども同士のトラブルが起きたとき、
「相手のことを考えなさい」
と日本の学校では教えるが、海外では
「自分のことを言えるようになりなさい」
と教える。
読んだ話で恐縮だが、海外の学校では子ども同士のトラブルが起きると、子ども同士に話し合わさせて解決させるのが一般的だという。
なるほど、お互い自己主張させあって、着地点を見出させるのだ。
自分たちで考えさせるのはいいことだと思うが、欠点もある。
自己主張の弱い子、弁が立たない子は、たとえ自分が正しくても泣きを見なければならなくなるのだ。
たとえばアメリカは訴訟社会だ。
対立が起きれば直ぐ裁判。
アメリカの裁判では、早い話、弁が立つ者が勝つ。
罪を犯した者でも、優秀な弁護士を立てて、裁判で相手を論破できれば無罪放免になる。
有名なのは「O・J・シンプソン事件」だ。
シンプソンが妻を殺したとされた、この全世界が注目した裁判は、ドリームチームと呼ばれたシンプソン弁護団の働きによりシンプソンはなんと無罪となったのである。
法律も正義もあったものではない。
要は弁さえ立てば、悪事も無かったことにできる。
もちろん日本にも凶悪犯罪はあり、私は「日本は犯罪の無い天国だ」などと頭がお花畑のようなことを言うつもりは無い。
無いのだが、日本には「お天道様が見ているから」というような、何か超自然的な存在があり、その存在を意識することで日本人は行動を律する――ようなところがあると感じているのである。
「気付いた人がやりましょう」方式でも、この「お天道様が見ているから」という意識のもと、「みんなのためになるから」「きれいになれば自分も気持ちいいから」という発想で、職場の流しの掃除や、午後の日差し除けのカーテン閉めや、無くなったコピー用紙の補充や、溜まったシュレッターくずの廃棄や、町内のゴミ置き場の掃除に取り組むのだ。
ただ、やはり「気付いた人がやりましょう」方式に甘えてはいけない。
たとえば、学校の教職員の仕事、あるいは学級の子どもたちの係・当番活動において、それはあってはならない。
「気付いた人がやりましょう」方式では、いつもやる人は固定される。
気付かない人は永久に気付かないし、たとえ気付いてもやらないのだから。
そうすれば職員室に、学級に、不満がたまってくる。
それを解決するのは、職員室の場合は校長であるし、学級の場合は担任だ。
校長も担任もリーダーである。
もし職員室や学級が表面上うまく回っているように見えたとしても、それが「気付いた人」におんぶに抱っこの結果成り立っているものだったのだとしたら、いずれ集団は崩壊していくだろう。
当番制などのルールを敷くのは実は大変だ。
ルールに従わない者が必ずおり、その者たちをルールに従わせるのに甚大な労力を費やすからだ。
そんな労力を費やすくらいなら、校長みずから、担任みずからやってしまったほうが、ずっと早くてきれいで楽な場合がほとんど。
でも、やはりそれではいけない。
「やらない者」を「やる者」へ、何とか育てようと働きかけ続けること――それがリーダーの仕事だからである。