頭と心
頭の中で洪水のように溢れている思考を言葉にしてみたらどうなるだろう。そんな興味で今、キーボードを叩いている。
これを書きはじめた只今の時刻はAM5時。朝に弱い本来の自分なら寝ているであろうこの時間に、わたしの目は冴え渡っていて、眠たくなる気配すら感じない。それでも薬を飲めば多少は眠れるのだろうけど、寝たくないなと思ってしまって今日に居座っている。(寝るまでが今日ですよね)
わたしの中で、寝るのがもったいないと感じるのは躁のサインだ。大体いつも気分が上がり始めると夜更かしをしてしまう。理由はシンプルに、寝なくても平気なのに寝るのがもったいないと感じるからだ。
こういうときこそ寝るべきなのだと頭では分かっているけれど、それよりも寝たくない!という心を優先してしまう。結果、今日のようにこんな時間まで起きていることになる。
今、すごく躁だなと感じている。
睡眠欲求が減少し寝たくなくなることだけではない。やりたいことやアイディアがたくさん思い浮かび、湧き上がるエネルギーで活動的になるところ。あれもこれもと落ち着かないかと思えば、ひとつのことに集中しすぎてしまうところ。話したい欲求が強くなり、話し出すと止まらなくなるところ。根拠のない自信に溢れてくるところ。上機嫌、ハイテンションで気分が高揚しているところ。
自分で書きながら、こうも典型的な躁状態なことあるの?と思う。そして嫌でも自覚する。
あーあ、これ、ぜーーんぶ病気なんだって。
わたしこんなに元気で、楽しくて、飛び跳ねて踊り出したいくらいなのに、病気なんだね。この元気は健やかなものでも自分本来のものでもなくて、躁っていう症状なんだね。……分かっているけど、悲しい。
躁を抑えましょうね、と処方された薬を飲む度にわたしは少し複雑な気持ちになってしまう。自分の感覚としては、躁状態って気分がいいだけだから。
もちろん、治療の必要性は分かっている。躁を抑えることで鬱の反動を減らそうということ。無自覚のうちに周りに迷惑をかけてしまうことを避けようということ。分かってはいる、頭では。
だけど心はそうじゃないところもある。薬で抑えるのは症状なんだろうけど、自分のものと躁の症状によるものとの区別がつかないから、今感じている意欲や活力、楽しいという感情、溢れてくる言葉、そういうものもすべて薬で抑えてぼやかされて感じられなくなってしまうんじゃないかって怖くなる。この気持ちを言葉にするのは難しいけれど、病気と本来の自分の境界線が曖昧になっている今、躁を抑えるというのは、自分を失ってしまうような感覚に近いのかもしれない。
だけど、いくら躁状態と本来の自分が混同し分からなくなっていたとしても、躁状態には終わりが来るわけだから、そこが本来の健やかな元気との明確な差というわけだ。 終わりが来て、躁状態という幻のようなものから覚めてようやく、本来の自分という輪郭を確認することができる。(しかし実際は、そのときもうすでに鬱転していることもあるのだけど)
そこまで分かっているから、悲しくなってしまう。
今のこの元気は症状でしかなく、本来の自分のように感じているのは幻想でしかないということ。
いつかはかならず躁が終わり、そのあとは鬱が来るかもしれないということ。
だから、悲しい思いをなるべくしないためにも、夜はちゃんと寝なくてはいけないし、薬をしっかり飲まなくてはいけないということ。
全部全部、分かっているんだよ。
頭では、分かっているよ。
ただ、
元気を素直に喜ぶことができないことを、
その終わりを恐れなければいけないことを、
本来の自分がどこにいるか見失っていることを、
心が、悲しいって言っているだけ。