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苦しみの先に

ずっと抱えてきた生きづらさに「双極性障害」という名前がついたのは、高校3年生の秋だった。そのときから気づけばもう、3年の月日が経過したらしい。

この3年間、病気を意識せず過ごせた時間はほとんどない。それくらい、病気に支配された生活を送ってきた。
永遠のように思える長い鬱と、束の間の軽躁。浮き沈みと言っても、鬱鬱鬱躁鬱鬱鬱というような波の中で、わたしは溺れてばかり。
通院もした、薬も飲んだ、しかし波は容赦なくわたしをのみ込んでいく。わたしはこれ以上どうすればいいの? 激しいアップダウンに振り回されることに疲れて、すべてをやめてしまいたくなったことなんて数えきれないほどある。実際に行動に移してしまったこともあった。

苦しかった、この3年間は人生の中でいちばん苦しかった。

その3年間を経て、わたしは今、限りなくフラットに近い状態で過ごしている。

波がなくなったわけではない。調子が良い日はよく喋って活動的になるし、調子の良くない日は少し泣いてしまうこともある。だけど、その気分の波がさざなみのように穏やかだ。そのまま上がりきったり下がりきったりすることなく、かならずフラットな状態に戻ってくることができる。
躁でもなく、鬱でもない。多分これが、忘れかけていた“本来の自分”なんだと思う。

穏やかな波の中で過ごす毎日はびっくりするほどに生きやすい。慢性的な希死念慮が消えるわけではなかったけれど、比較的弱くて小さいのは、気分の波が落ち着いているからだと思う。

フラットなこの状態にたどり着けた理由は分からない。薬が効いてくれたのかもしれないし、たまたま波がそういうタイミングだったのかもしれない。

どんな理由であれ、わたしは平穏でいられることに本当に幸せを感じている。やっとだ、やっとここまで来たんだ。
何度も諦めてしまいそうになったし、期待することもやめてしまいたかったけれど、苦しみの先には穏やかさがちゃんとあった。

だけど、この先ずっとこのままでいられるかと言われたらきっとそうではないだろう。安定しているように見えるこの穏やかさは、実はすごく不安定な土台の上で成り立っているものなんだと思う。いつかはまた、激しい気分の波が押し寄せて、すべてを流し去ってしまうことがあるかもしれない。

でもそんなときにはこのことを思い出したい。病気の奥にはちゃんと本来の自分がいることや、荒れた気分の波も落ち着く日が来るということを。

双極性障害と言われたあの日、この病気とは一生付き合っていかなきゃいけないということを知り、そんなのできっこないと思った。
だけど、穏やかな波もあることを知れた今、そのときよりも前向きな気持ちでこの病気と向き合える気がする。
そう思えるのは、この日まで苦しみを乗り越えてきてくれたわたしがいるからだ。
生きてきてくれてありがとう、わたし。

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