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自傷行為のような努力
腕を切る、薬をたくさん飲む、髪を抜く……様々な自傷行為がある。身体的なものだけではない、その中には精神的な自傷行為も含まれていると思う。あるときのわたしにとって、頑張ることは自傷行為のようなものだった。
昔のわたしは、なんでも頑張れることが取り柄だった。
学校生活にアルバイト……多忙だとしても、多少しんどくても、それ以上の充実感を得られていたあのとき。努力を苦に思わなかったのは、自分は「頑張っている」という実感が、自己肯定につながっていたからだと思う。
このときのわたしは頑張ることが好きだったし、頑張れる自分が好きだった。
その後、わたしは精神疾患を患った。
病気になってから、まるで燃えつきたようになにも頑張れなくなった。それはわたしにとって取り柄を失うことを意味していて、そんな自分を自分だとは認められるはずがなかった。頑張ってこそ自分じゃないか、と。
頑張れない自分が嫌でしかたなくて、頑張ろうとしてみたこともある。どれもうまくいかなかった。思うように頑張れない。努力が苦しくてしょうがなかった。
それでも、頑張れることが取り柄だからと頑張り続けようとするわたしを見て友達は言った。
「自傷行為みたいに見えるよ」
驚いたけれど、その言葉に納得している自分がいた。今の自分には、昔のように頑張ることはできないのだと思う。
できることなら、昔のように頑張りたかった。けれどそれはもう無理なんだと感じている。今の自分に昔の頑張りを求めるのは、苦しみにしかつながらない。
昔のわたしは「頑張っている」という実感を持つことで、努力を苦に思わず過ごせていた。
それは逆に言えば、自分で「頑張っている」と思えない限り(実際は努力できていたとしても)自分を追い詰めてしまうということだ。結果、限界を迎えてつぶれてしまう。自傷行為のように思える努力は、こういうことを言うのだろう。
わたしはずっと、昔の頑張りの基準を今の自分にも適応させて、ちっとも頑張れていない、もっと頑張るべきだと追い込んできた。それで本当に頑張れるのならまだよかったかもしれない、でも実際は頑張ることが苦しくなっていく一方だった。それだけではない。また頑張れなかった、と惨めな思いをしたくなくて、頑張ること自体怖くなってしまった。
わたしに必要なのは、今の自分に合わせた新たな基準なんだと思う。そうして努力を正しく評価し得た「頑張っている」という実感は、わたしを強くしてくれるはずだ。
たしかに、もう昔と同じ基準では頑張れなくなってしまったかもしれない。けれど、基準を見直すことで、昔のように頑張ることが好きな自分なら取り戻すことができるかもしれない。
だからもう、苦しくなるだけの自傷行為のような努力はやめてみる。
昔の自分とは違う、今の自分として生きていくために。