本多平八郎忠勝

本多忠勝を研究している者です。 忠勝に関する記事を定期的に投稿していきます。

本多平八郎忠勝

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最近の記事

第11話 関ヶ原合戦での活躍

岐阜城陥落後、忠勝と直政は美濃赤坂付近に着陣し、周辺の寺社や村落に禁制を発給しています(「安積六夫氏所蔵文書」)。その一方で、家康の命を受けて西軍武将への調略を行います。 8月28日、忠勝は犬山城の加藤貞泰へ、城の明け渡しと人質として老母の差し出しを要求しました(「大洲加藤家文書」)。9月3日には、直政・正則・池田輝政と連署で美濃方面への出陣を促しています。前回の要求は呑んだようですが、それでもなかなか出陣しようとせず、9月11日には柿2籠の礼を述べるとともに、家康出陣に合わ

    • 「本多忠勝発給文書集」について

       大学生時代から始めた忠勝発給文書をやっとまとめることができました。つい最近になって発見したものもあり、計45通の文書とその解説を掲載しています。 以下のファイルのダウンロードをお願いします。 ※「秋山文書」に関しては大学生当時のメモそのままに記載しています。国立国会図書館デジタルコレクション等で確認がとれませんでした。確認が取れ次第追記するつもりです。

      • 〈史料紹介〉慶長8年4月3日 池田輝政宛書状写

        〈史料〉 先日御参内之砌、卒度懸御目候、巳来(いらい)此中御宿へ以参も不申入ふさた迷惑仕候、然ハ飯田半兵息子之儀被召置候由被申半兵一段忝候、御隠にて被申事候、拙者式も毎々ゟ(より)別而知音之儀ニ御座候間被懸御目候て於被召遣ハ拙者式迄可忝候、何事も貴面にて可得御意候、恐惶、   卯月三日     本多中務(花押なし)  羽柴三左様人々御中 上記書状は池田輝政に宛てたものです。冒頭の「御参内」とは日付から慶長8年(1603)の家康将軍就任時のことと思われます。その際に輝政と

        • 第10話 関ヶ原合戦と「目付」としての忠勝

          慶長3年(1598)8月、太閤秀吉が没すると、世上は不安定となりました。この直前にあたる6日付の真田信幸宛三成書状によると、忠勝は連絡なしで三成屋敷へと訪問してきたという(「真田家文書」)。この一例でもって三成と忠勝の関係を説くこともできるますが、少なくとも忠勝の訪問自体は交友関係を示すものではなく、世上の風説に対する問い合わせなど危篤状態だった秀吉の病状への何らかの政治的な思惑による行動であると見た方が自然でしょう。また、この頃の忠勝は他の家臣同様に家康屋敷の在番を交代で務

          第9話 大多喜城主·忠勝と秀吉からの厚遇

          万喜城を与えられて忠勝だったが、その後すぐに大多喜城へと移りました。残念ながら、大多喜城主としての忠勝の功績はほとんど残されていなません。文禄4年(1595)、忠勝は菩提寺建立のために下総小金東漸寺より了学上人を招き、寺領として100石を寄進しましたた(「旧良玄寺文書」)。また、慶長2年(1597)には領内総検地を行わせ、後世の言い伝えでは六斎市を開いたとされています。 忠勝の残した功績・足跡が少ないのは、忠勝自身が大多喜城に在城することが少なかったからでしょう。前回紹介し

          第9話 大多喜城主·忠勝と秀吉からの厚遇

          小論文「本多忠勝所用武具類とその使用意義について」

          はじめに    本多忠勝といえば、「黒色威胴丸具足」、いわゆる鹿角の脇立の甲冑を着用した肖像画が有名である。また、忠勝愛用の得物として天下三名槍にも選ばれている「蜻蛉切」や姉川合戦図屏風にも出てくる「鍾馗の旗印」、愛馬の「三国黒」も有名である。これらのうち、三国黒を除いた3点は現存しており、現在に至るまで人々に忠勝の武勇伝の息吹を直に伝えている。  しかし、これら(以後、「忠勝所用武具類」とする)がいつからセットで使用されはじめたのか、そもそもセットで使用されていたのかも不明

          小論文「本多忠勝所用武具類とその使用意義について」

          第8話 小田原北条氏討伐での働き

          天正16年(1588)、西国の大大名・毛利輝元が上洛しました。秀吉謁見後、輝元ら一行は諸大名の屋敷をまわり、御礼を行っています。7月25日、家康の屋敷へ訪ねた際、家康は聚楽第へ出仕しており、留守でした。この時、対応にあたったのが忠勝です(「毛利輝元上洛日記」)。 忠勝は大久保忠隣とともに輝元らから太刀代千疋を贈られており、この二人が屋敷の留守居を任されていたと考えられます。つまり、忠勝は本来家康が果たすべき御礼への対応を代理として務めたのです。 またこの年、忠勝は甲斐などへの

          第8話 小田原北条氏討伐での働き

          コラム 武将としての評価と忠勝隊の意義について

          徳川家重臣として歩み、江戸幕府草創にも大きく貢献した忠勝は生前から武人として高く評価されていました。前回お伝えしました細川忠興書状では、わざわざ息子・忠利に忠勝を評価した狂歌の載っているページがあるかを問い合わせています。このことから、忠興が忠勝を慕っていたことが窺えるます。 また、家康の次男・結城秀康が養生中であった息子・忠政に宛てた書状において、以下のように記しています。   御父子や我等やうなる者をはせけんよりそねミ申ものニて候間… つまり、忠勝父子や私のような武人は

          コラム 武将としての評価と忠勝隊の意義について

          第7話 朝日姫輿入れ騒動と忠勝

          小牧表での活躍の一方で、忠勝は蘆田時直(荻野直正の弟)、大槻久太郎ら丹波国衆へ書状を送り、近々上洛するため、各々で相談し、油断なく軍事行動を取るように指示しています(「譜蝶余録」等)。 特に、甥を擁立していた時直へは優遇措置を検討しており、丹波国の領地は時直の意に任せるとしたうえで、他の国衆が望んでも時直の意見を尊重させるとしています。しかも、兵糧米についても整い次第、こちらから送るというかなりの優遇ぶりです。 このように、華々しい戦場での活躍の裏では秀吉の背後を脅かす調略を

          第7話 朝日姫輿入れ騒動と忠勝

          第6話 忠勝と小牧·長久手合戦

          天正11年(1583)3月に吉野助右衛門の本領安堵状の副状を発給した忠勝は、関東の国衆へ連絡をかわします。9月15日、下野の水谷勝俊へ家康と羽柴秀吉との昵懇の関係をアピールする書状を送っています(「中村不能斎採集文書」)。 この書状で、秀吉から不動国行の刀を贈られたことを知らせるとともに、去冬に訪ねてきた水谷蟠龍斎(勝俊の兄)に馳走できず、残念であると伝え、前々から知っている仲なので、「上辺御用」があれば自分に申し付けてほしいと願っています。このことから、忠勝が水谷氏との連絡

          第6話 忠勝と小牧·長久手合戦

          雑記 細川忠興書状発見の経緯とその意義について

          第一話でお話した寛永4年(1627)とされている細川忠興書状(息子·忠利宛)は私が卒業論文作成の際に奈良大学図書館で発見した史料で、私史上最大の発見といっても過言ではありません。 この頃、「甲陽軍鑑」に出てくる逸話を論文で用いるべきかいなか決めかねていました。そんな折、私は目に入った「大日本近世史料 細川家史料2」を咄嗟に手を取って忠勝関係の史料があるかを探しました。そしたら、件の書状を見つけたのです。この書状を見た私は思わず声をあげてしまいました。コロナ流行で図書館が閉鎖さ

          雑記 細川忠興書状発見の経緯とその意義について

          第5話 本能寺の変と忠勝~徳川家臣としての立場~

          軍事面・外交面で活躍している忠勝ですが、本能寺の変前後の立場が諸史料から窺えます。天正8年と10年には家臣たちによる家康への正月年頭の挨拶において奏者(取次)を務めており、5月には家康と同族である深溝松平家忠へのお礼の使者として派遣されています(「家忠日記」)。 また、本能寺の変後には石川数正とともに織田家家臣へ書状を発給し、内外ともに徳川家重臣としての役割を果たしています。このころの徳川家中において、忠勝は酒井忠次、石川数正という両家老に次ぐ立場であったことが窺えます。 天

          第5話 本能寺の変と忠勝~徳川家臣としての立場~

          第4話 対武田戦と忠勝の活躍

          天正3年(1575)の長篠合戦に参陣したことは後世に書かれた合戦図屏風等から推察されますが、一次史料では確認できません。彼の軍事的動向が確認できるのは天正8年(1580)からで、武田勝頼との対決が激しくなってきたころです。 7月24日、忠勝は髙天神城の補給拠点であった小山城周辺の田の稲を刈り取らせました。この時、城から足軽がでてきたのであろうか小規模な合戦に発展し、城まで追い込んだ忠勝隊のうち、3名が槍で討ち取られています(「家忠日記」)。 翌天正9年(1581)12月の髙天

          第4話 対武田戦と忠勝の活躍

          第3話 忠勝と上杉家

          忠勝は元亀元年(1570)の金ヶ崎の退き口や姉川合戦、元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦に参陣したようですが、それらでの忠勝の活躍ぶりは信用できる史料からは確認できません。 第一話でお話しした狂歌は、三方ヶ原合戦の前哨戦・一言坂での追撃戦において殿として活躍した忠勝を称賛して武田方の武士が立て札にして掲げたという設定で「甲陽軍鑑」に記されています。個人的には、忠勝が一言坂で活躍したこと自体は事実とみてよいと思われます。 その一方で、忠勝はこの頃から上杉家家臣・村上国清と連絡を

          第3話 忠勝と上杉家

          第2話 忠勝の初見史料

          忠勝の初陣は、永禄3年(1560)の桶狭間合戦での大高城への兵糧輸送及びその後詰めのようです。また、永禄6年(1563)の三河一向一揆では家康方につき、一騎討ちを遂げたといわれています(以上、「寛政譜」、「三河物語」)。 その功績が認められてか、永禄9年(1566)には旗本先手役に任じられ、御附人50人を与力として付与されたとされています(「寛政譜」等)。 さて、忠勝が一次史料に初めて登場するのは、永禄11年(1568)と比定されている祝田新六宛の家康朱印状の副状です(「祝田

          第2話 忠勝の初見史料

          第1話 若き日の忠勝

          本多忠勝は天文17年(1548)、顕光を祖とする藤原姓本多氏の本多忠高の嫡男として誕生しました。幼名は鍋之助といったとされています(「寛政重修諸家譜」、以下「寛政譜」)。 父·忠高は岡崎松平氏の松平広忠(徳川家康の父)の家臣でした。しかし、広忠は家臣によって誅殺されてしまいます。忠勝が生まれて1年後の天文18年(1549)、忠高は松平氏を擁する駿河国主・今川義元の軍勢とともに織田信秀の子・信広の籠る安城城へと攻め寄せ、討死しました。乳飲み子にして父親を失ったのです。確たる裏付

          第1話 若き日の忠勝