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第2話 忠勝の初見史料

忠勝の初陣は、永禄3年(1560)の桶狭間合戦での大高城への兵糧輸送及びその後詰めのようです。また、永禄6年(1563)の三河一向一揆では家康方につき、一騎討ちを遂げたといわれています(以上、「寛政譜」、「三河物語」)。
その功績が認められてか、永禄9年(1566)には旗本先手役に任じられ、御附人50人を与力として付与されたとされています(「寛政譜」等)。
さて、忠勝が一次史料に初めて登場するのは、永禄11年(1568)と比定されている祝田新六宛の家康朱印状の副状です(「祝田家文書」)。この副状で、忠勝は ①忠節を尽くすとの申し出を家康に伝え、家康がそれに対して祝着していること ②いよいよ戦って、忠節を尽くすべきこと ③懸命に取り立てるので、褒美に関しては自分にまかせてほしいこと を伝えています。
わずか20歳(数え年で21歳)の忠勝が徳川家臣として、主君・家康と外様国衆との連絡役・取次役を果たしていたことがこの史料から窺えます。また、井伊直政の例があるとはいえ、この年齢での取次役は徳川家中の中でもかなり早い方なのではないでしょうか


祝田新六に宛てた家康朱印状の副状。確認されているもので、最古の忠勝発給文書です。

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