第1話 若き日の忠勝
本多忠勝は天文17年(1548)、顕光を祖とする藤原姓本多氏の本多忠高の嫡男として誕生しました。幼名は鍋之助といったとされています(「寛政重修諸家譜」、以下「寛政譜」)。
父·忠高は岡崎松平氏の松平広忠(徳川家康の父)の家臣でした。しかし、広忠は家臣によって誅殺されてしまいます。忠勝が生まれて1年後の天文18年(1549)、忠高は松平氏を擁する駿河国主・今川義元の軍勢とともに織田信秀の子・信広の籠る安城城へと攻め寄せ、討死しました。乳飲み子にして父親を失ったのです。確たる裏付けはないものの、幼少・青年期の忠勝を養育・後見したのは、叔父の忠真であることは間違いありません。
さて、若き日の忠勝の活躍についてですが、それを記した同時代史料は残念ながらありません。
しかし、忠勝が没して17年後の寛永4年(1627)に出されたとされる忠利宛細川忠興書状には以下の記述が見えます(「大日本近世史料 細川家史料二」)。
信其之日々記、今朝よそより帰候て只今一二 枚見申候、事ノ外キ候間、奥まて見申事成ま しき間返申候、此内ニ本田中書之若時ノ事を、信其唐ノ頭ニ本田平八とうたニよまれ候由候、御入候哉可承候、
詳細は後日お伝えしますが、信其なる人物が若き日の忠勝を振り返って「唐ノ頭ニ本田平八」と狂歌にして日記に記したというのです。
この信其という人物について、詳細は一切不明です。青年期の忠勝を知っていることからすれば、恐らく徳川家臣だったと思われます。なお。この狂歌は「甲陽軍鑑」等に家康にはもったいないものの例えとして詠まれたもの(「家康に過ぎたるものは二つあり。唐の頭に本多平八」)として記載され、それが現在でも流布していますが、その元ネタはこれである可能性が高いです。
ともかく、青年期の忠勝が身近な人物からも称賛されるほど、戦場での活躍が目覚ましかったことがこの史料からは窺えます。