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第9話 大多喜城主·忠勝と秀吉からの厚遇

万喜城を与えられて忠勝だったが、その後すぐに大多喜城へと移りました。残念ながら、大多喜城主としての忠勝の功績はほとんど残されていなません。文禄4年(1595)、忠勝は菩提寺建立のために下総小金東漸寺より了学上人を招き、寺領として100石を寄進しましたた(「旧良玄寺文書」)。また、慶長2年(1597)には領内総検地を行わせ、後世の言い伝えでは六斎市を開いたとされています。

了学上人に宛てた判物。


忠勝の残した功績・足跡が少ないのは、忠勝自身が大多喜城に在城することが少なかったからでしょう。前回紹介しました毛利輝元上洛時に家康屋敷の留守居を任されているように、忠勝が家康在所にいることが圧倒的に多かったものと思われます。
また北条家討伐後、秀吉はますます忠勝を厚遇していきます。同年、秀吉は忠勝に源義経の家臣・佐藤忠信が着用していたという兜を与えています(「忠信冑記」等)。忠勝を忠臣・忠信になぞらえ、自身の直臣に取り立てようとでも考えていたのでしょうか。まさに「勇士之美譚」です。なお、この兜は現存しています。
また、太閤となった秀吉は忠勝と平岩親吉を大坂城山里曲輪の茶室に招きいれ、「大名衆なミニ」もてなしたうえに秘蔵の茶の湯道具を見せたといいます(「参遠古文書覚書」)。どういう意図があったかは不明ですが、忠勝をよほど信頼していたに違いありません。

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