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第11話 関ヶ原合戦での活躍

岐阜城陥落後、忠勝と直政は美濃赤坂付近に着陣し、周辺の寺社や村落に禁制を発給しています(「安積六夫氏所蔵文書」)。その一方で、家康の命を受けて西軍武将への調略を行います。
8月28日、忠勝は犬山城の加藤貞泰へ、城の明け渡しと人質として老母の差し出しを要求しました(「大洲加藤家文書」)。9月3日には、直政・正則・池田輝政と連署で美濃方面への出陣を促しています。前回の要求は呑んだようですが、それでもなかなか出陣しようとせず、9月11日には柿2籠の礼を述べるとともに、家康出陣に合わせて赤坂へ出向くよう促しています。
また、関ケ原合戦前日の9月14日、直政とともに毛利軍の吉川広家・福原広俊と起請文を交わしています(「毛利家文書」)。内容は大坂城にいる輝元や吉川らの身上の保証を約束するものでした。これにより、南宮山の毛利軍が合戦で家康の背後を衝くことはありませんでした。この起請文こそ、家康勝利の最大の要因といっても過言ではないでしょう。

忠勝·直政起請文。家康が輝元らを等閑にしないことなどを約束している。

9月15日の関ヶ原合戦では、忠勝は襲いかかってきた島津軍に攻め入り、総崩れにさせたとされています(「太田和泉守記」、「内府公軍記」ほか)。また、具体的な戦功は不明ですが、井伊家家臣・三浦安久と忠勝が互いに手柄の証人になったようです(「三浦十郎左衛門家文書」)。


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