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〈史料紹介〉慶長8年4月3日 池田輝政宛書状写

〈史料〉
先日御参内之砌、卒度懸御目候、巳来(いらい)此中御宿へ以参も不申入ふさた迷惑仕候、然ハ飯田半兵息子之儀被召置候由被申半兵一段忝候、御隠にて被申事候、拙者式も毎々ゟ(より)別而知音之儀ニ御座候間被懸御目候て於被召遣ハ拙者式迄可忝候、何事も貴面にて可得御意候、恐惶、

  卯月三日     本多中務(花押なし)

 羽柴三左様人々御中

上記書状は池田輝政に宛てたものです。冒頭の「御参内」とは日付から慶長8年(1603)の家康将軍就任時のことと思われます。その際に輝政と面会した忠勝は飯田半兵衛(旧織田家家臣)の子息について話題となったようで、半兵衛とは生前中親しくしていたから輝政が子息と面会した上で家臣として引き立ててくれれば自分にとってもありがたいと伝えています。
亡くなった友人の子息の行く末まで案じ、わざわざ仕官の依頼をしているのです。義理堅い性格がこの書状から窺えます。

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