第10話 関ヶ原合戦と「目付」としての忠勝
慶長3年(1598)8月、太閤秀吉が没すると、世上は不安定となりました。この直前にあたる6日付の真田信幸宛三成書状によると、忠勝は連絡なしで三成屋敷へと訪問してきたという(「真田家文書」)。この一例でもって三成と忠勝の関係を説くこともできるますが、少なくとも忠勝の訪問自体は交友関係を示すものではなく、世上の風説に対する問い合わせなど危篤状態だった秀吉の病状への何らかの政治的な思惑による行動であると見た方が自然でしょう。また、この頃の忠勝は他の家臣同様に家康屋敷の在番を交代で務めています(「黒田家文書」)。
会津上杉景勝討伐に出陣した慶長5年(1600)7月1日、忠勝は田中吉政へ書状を送り、家康が無事江戸城に入城を果たしたこと、20日ごろに会津方面へと出陣する予定であることを伝えています(「色川本田中文書」)。
会津へと向かった家康でしたが、三成らの挙兵を知り、江戸城へと引き返しました。忠勝は当初徳川秀忠隊に属して中山道を通過する予定でしたが(「太田和泉守記」等)、井伊直政とともに家康に先んじて出陣し、清須城にいる福島正則ら諸将の軍目付を務めるよう命じられました(同上等)。忠勝は病を患っている直政の補助役の意味も有していたのです。
その後の忠勝らの足取りは遅く、8月19日、しびれを切らした黒田長政らは忠勝・直政両人へ清須城にて軍議を開くので、軍勢を置いてでも入城するよう働きがけました(「井伊達夫氏所蔵文書」)。こうして両人が清須城に入城するとすぐに軍議を開き、21日より木曽川越えを敢行します(「太田和泉守記」)。
大手軍、搦手軍に分かれた諸将は快進撃を続け、23日には石田方の織田秀信の籠る岐阜城へと攻め寄せた。川越えの際、忠勝らは福島正則の後に続くと申し出ましたが、諸将より反発され、最後尾につくこととなりました。これにより、両名は諸将の活躍を後方から見聞しなくてはならず、家康への報告に支障をきたしたようです(「伊達家文書」)。両人は諸将の手柄などを逐一家康へ報告し、了解を得ていたのです。