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第7話 朝日姫輿入れ騒動と忠勝

小牧表での活躍の一方で、忠勝は蘆田時直(荻野直正の弟)、大槻久太郎ら丹波国衆へ書状を送り、近々上洛するため、各々で相談し、油断なく軍事行動を取るように指示しています(「譜蝶余録」等)。
特に、甥を擁立していた時直へは優遇措置を検討しており、丹波国の領地は時直の意に任せるとしたうえで、他の国衆が望んでも時直の意見を尊重させるとしています。しかも、兵糧米についても整い次第、こちらから送るというかなりの優遇ぶりです。
このように、華々しい戦場での活躍の裏では秀吉の背後を脅かす調略を行っていたのです。しかしながら、忠勝の努力もむなしく、家康らの上洛は盟主たる信雄の単独講和により水泡に帰し、合戦は終結しました。
天正14年(1586)、秀吉は家康の臣従(上坂)を促すため、妹・朝日姫を家康の正室として嫁がせることにしました。家康側も受け入れて話は進んでいたが、4月19日、突如として婚儀が延期となりました。
というのも、家康が朝日姫を迎え入れる使者として派遣した天野康景を秀吉が「御存知」ない武将だとして腹を立てたからでした。そして、その代わりとして、酒井忠次、榊原康政、忠勝のうち一人を派遣するように命じたのです。これに対し、顔を潰された家康も激怒し、「事切候ハんか」と盟約破棄を口にするほどでした。信雄の使者が何とか宥めて、改めて使者を送ることとなりました。そして、その使者に忠勝が選ばれたのです。
23日に浜松城を出立した忠勝は4月以内には大坂城に入ったと思われます。秀吉と面会を果たし、秀吉から定宗の脇差と藤原定家の小倉色紙を拝領したうえに、茶の湯でもてなされたといいます。もしかしたら、千利休によるものであったかもしれません。5月5日、忠勝は朝日姫を清須城まで送ると、そのまま浜松城へと帰還しました(以上、「家忠日記」)。
この朝日姫輿入れ騒動は、忠勝が関白・秀吉からも一目置かれる存在であったことを示す好事例であり、この時期の徳川家中での地位が筆頭家老・忠次に次ぐものであったことがわかります。

「家忠日記」天正14年4月19日条。秀吉が指名した武将の中に忠勝の名が見えます。

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