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#75 「エビデンス」の足跡と行先|学校づくりのスパイス(武井敦史)
【今月のスパイスの素】
村上靖彦
『客観性の落とし穴』
今回は、昨今強調される「客観的根拠(エビデンス)」というものの背景とその教育における影響について、村上靖彦『客観性の落とし穴』(筑摩書房、2023年)を手がかりに考えてみたいと思います。村上氏は精神分析学を専門とする研究者で、とくに現象学の視点に立つ手法を用いて、主にケアに関係する人々の生きる世界を探ってこられた、ちょっと異色の研究者です。
経験の上に客観が乗っている
「その主張にエビデンスはありますか」という言い方をよく耳にするようになってきました。けれども、「エビデンスとは何ですか」と聞いてみると、途端にしどろもどろになる人が案外少なくありません。
本書によれば「客観性」という言葉は19世紀初めには新語であり、19世紀半ばに普及した(18頁)比較的新しい概念だそうです。写真など機械による測定が時代とともに普及すると「人の目というあいまいなものに『邪魔されずに見る』ことをさす」(25頁)ようになり、やがて世界そのものが数字化し、世界は確率によって支配されるようになった(53頁)と歴史が論じられています。
客観性信仰には基本的な部分での誤解があります。それは「客観」的な現実なるものがまずあって、それを人の好みによって解釈した結果が「主観」である、というものです。しかし科学の実験データも含め、人の感覚からまったく独立している物事など確認しようがありません。データは目で読み取られる必要があり、目は錯覚を起こしえるからです。
「そうは言ったって同じ数字は皆同じように読み取る。だからそれを客観的データといったって問題ないじゃないか!」そう考える人もいるでしょう。確かにそうです。けれども測ろうとする対象が複雑になってくるとそのようにはいきません。
たとえば「学力」という教育現場でおなじみの指標について考えてみましょう。客観性重視の立場からすれば学力測定が感覚頼みでは困るので客観テスト等の装置によって測定すべき、ということになります。けれどもテスト作成においては学習指導要領等の「基準」を参照し、解釈しつつ具体化するという出題者の感覚的作業が介入します。
さらにその「基準」は過去や他国の政策や、有力調査や研究論文を参照して作成されますが、その際、どの調査や研究を取捨選択するかについて、明確な判断基準というものがあるわけではありません。
もちろん研究論文にはランクがあり、それが一つの目安にはなりますが、研究論文としての優劣(有力学術誌での採否)は、通常複数の研究者による査読評価の総合点で判断されます。だから同一論文の評価が査読者間で割れることも実際よく起こります。
このように巷で客観指標といわれるものも、実は人の解釈や価値判断を何重にもくぐり抜け、「人の感覚の集合体」という土台の上に成立していることが少なくありません。
もちろん、だから「客観指標に目をつむれ」というのではありません。むしろその逆に、客観指標の背後と先を、もっとはっきり見ようとすべきであると筆者は考えます。
村上氏が指摘するのは、数値による客観化が人に適用されると、経験の持つ価値が切り崩され(81頁)、社会に役立つかどうかで人が序列化され(66頁)ていく危険性です。
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今こそ「共感しようとする力」を
村上氏が採用している現象学とは「客観の手前にある基盤を考える方法」(137頁)であると本書では説明されています。インタビューという手法を用いて、対象者の語りから「生きる流れを内側から追って」(139頁)いくという方法を氏は採用しています。
たとえば、本書にはヤングケアラーであった女性の次のような語りが出てきます。
「覚醒剤を使用してたから、お母さんのほうが。してたから、だからやっぱりお金も足りなくなってくるから、(中略)家帰ってもご飯ないとかっていうのが結構あって。それで、ちっちゃいときやったからあんまり記憶もないけど、でも私、結構そういうの繊細やったりするから、ママのこと気にして仕方なかったから、すぐ泣いてたし。もうしょっちゅう泣いてたし、それを弟と妹がずっと見てるみたいな感じでしたね」(100頁)。
この言葉からは、話し手の経験の重みがひしひしと伝わってくるように筆者には感じられますが、それは読者である私たちが、語りに寄り添ってみようとしているからにほかなりません。氏はこうした感情の伝播を「経験の切迫感は語りのいびつな手触りを通して伝わる」(101頁)と表現します。
もちろん、こうした氏の理解の正しさを保障するエビデンスはありません。どこまで行っても人は他者と共感「しようとしている」にすぎず、その意味では、他者による解釈とは常に誤解を生む危うさを内包したものであることは確かです。けれども、こうした「共感しようとする力」によってこの世界がかろうじて支えられている、としたらどうでしょう。
「共感しようとする力」は特別なものではないにせよ、人間なら誰もがいつでも発揮しているものと考えるには無理があります。人類のホロコーストの歴史は、この力が何かの拍子に機能しなくなることがあることを物語っています。
私たちは、牛や豚を日ごろから当たり前のように食べていますが、そこで命を絶たれた動物の痛みを意識している人は少ないでしょう。
人間のデータ化を突き詰めると数値の低い人は価値も低いということになります。
村上氏は「実は経験の個別性がもつ真理は、他の誰にとっても真理であるのではないか、と感じている」(148頁)と述べます。
筆者もそう感じます。皆さんはどうですか?
(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)
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【著者経歴】
武井敦史(たけい・あつし) 静岡大学教職大学院教授。仕事では主に現職教員のリーダーシップ開発に取り組む。博士(教育学)。専門は教育経営学。日本学術研究会特別研究員、兵庫教育大学准教授、米国サンディエゴ大学、リッチモンド大学客員研究員等を経て現職。著書に『「ならず者」が学校を変える――場を活かした学校づくりのすすめ』(教育開発研究所、2017年)、『地場教育――此処から未来へ』(静岡新聞社、2021年)ほか多数。月刊『教職研修』では2013年度より連載を継続中。