#214 禅語「喫茶去」(きっさこ)の謎
よくお茶席で見かける「喫茶去」と書かれた掛軸。
例によって禅語なのですが、なんで重用されるのかずっと不思議に思っていました。だって、直訳は「お茶飲んで帰れ」。その謎に関してのメモ。
1、禅語「喫茶去」の由来
こんな状況ですから、習っていたお茶もすっかりご無沙汰です。
お茶席では亭主はいろいろと趣向を凝らしてお客様をお迎えするものですが、わかりやすいものに掛軸があります。
季節に合わせたものや席の趣旨に合わせたものなど様々あるのですが、「喫茶去」という掛軸は私の数少ないお茶席の経験でも複数回見かけました。それくらい有名な禅語です。
まず、意味ですが、広辞苑にも載っていました。
禅語。お茶でも飲んで来い。もともと相手を叱咤する語であるが、後には「お茶でも召し上がれ」の意に解され、日常即仏法の境地を示す語と解された。
これでは分からないですね。
由来は以下の通りです。
中国の高名な禅僧・趙州(778〜897?)は、彼を訪ねてくる修行僧に対して、
「ここに来たことがあるか?」と質問し、「はい」でも「いいえ」でも
「喫茶去(きっさこ)」と答えたと言われます。
2、さまざまな解釈
やっぱり分からないですよね。
ということで、さまざまな解釈がされています。
最も一般的なのが、「せっかく来たのだからお茶でも飲んで行きなさい」というものです。広辞苑の意味に近いですね。
次には、「どんな人に対しても分け隔てなく接しなさい」というものです。
確かに仏教の教えの大事なものの一つに分け隔てをしない、というのがありますが…
そこからの派生として、「お茶を立てる時にお客様によって分け隔てしない」というものもあります。お茶の世界では大事されている一期一会という精神に通じるものがありますが…
反対に、原文を尊重して「目を覚まして出直してこい」という解釈もあります…
これだけ解釈の幅が広いのです。
私にとってはいずれもしっくりこなくて「謎」のままでした。
皆さんはどう解釈されますか?
(あんまり興味ないですよね…すいません)
3、龍雲寺 細川住職の解釈
「なごみ」という淡交社が出している茶道関連の雑誌があります。
(かなりマニアックです…)
そこにこの「喫茶去」について、龍雲寺の細川住職が書いている以下の解釈がありました。
訪ねてきた修行僧は、修行で頭が満杯であるように、見受けられた。
何を言っても、何を指し示してもきっと届くことはないと。
だから、趙州和尚は「心を空っぽにしているか」と問いかけてくださっているように思えるのです。
4、まとめ
いかがでしたでしょうか?
住職は以下のようにも述べています。
私たちは兎角、理論で武装して目の前のことに臨んでいないでしょうか。心が空っぽでなければ、素晴らしい教えも、ご縁も自分の中には入ってきません。
お茶席の禅語の話ではありましたが、noteにメモしようと思ったのは、お茶席に限らず、言えることだなぁ、と思ったからです。
新しいものを取り入れるには、既存の知識と結びつけて理解するのも大事ですが、一旦、「心を空っぽにして」学ぶことも同じく大事です。
人の話を聞くときも、先走って「知ってる…」「それはね…」とならずに、一旦、「心を空っぽにして」耳を傾けることが大事です。
趙州和尚がどういうつもりで「喫茶去」とおっしゃったか、その本当のところは分かりませんが、私にとってずっと「謎」だった解釈は、「心を空っぽにしているか」で決着しました。
最後までお読みいただきありがとうございます。
お休みの日なのでちょっとビジネスネタを離れようとしましたが、結局ビジネスネタのようなものになってしましました…