植松清志

大阪市立大学大学院博士課程修了。学術博士、一級建築士。大阪狭山市文化財保護審議会副会長。近世・近代の大阪の建築や都市史の研究のほか、民家調査や登録文化財申請などに従事。編共著『近世大坂における蔵屋敷の建築史的研究』、『平野区誌』、『図解建築用語辞典』、高校教科書『建築計画』など。

植松清志

大阪市立大学大学院博士課程修了。学術博士、一級建築士。大阪狭山市文化財保護審議会副会長。近世・近代の大阪の建築や都市史の研究のほか、民家調査や登録文化財申請などに従事。編共著『近世大坂における蔵屋敷の建築史的研究』、『平野区誌』、『図解建築用語辞典』、高校教科書『建築計画』など。

最近の記事

ヨーロッパの近代建築⑨ダルムシュタット-地域のお宝さがし-130

■ダルムシュタット■  ダルムシュタットはかつてはヘッセン大公国と称されましたが、現在はドイツ連邦共和国ヘッセン州南部に位置する都市です。1892(明治25)年に第5代大公を継承したエルンスト・ルートヴィッヒは、1899年に「芸術家コロニー」(以下、コロニー)をマチルダの丘に創設し、ユーゲント・シュティール運動を応援します(注1)。  ルートヴィッヒから「コロニー」の建設を託された、セセッション館(1893年)の設計者オルブリッヒは、ダルムシュタットに移住し、「コロニー」内

    • ヨーロッパの近代建築⑧ウィーンⅢ-地域のお宝さがし-129

      ■ワグナーの教え子■  ワグナーが、ウィーン美術アカデミー(以下、アカデミー)教授に就任した翌年(1895[明治28])年に刊行された『現代建築』(注1)は、講義のテキストと推測されますが、その薫陶を受けた学生が建築界で活躍して行きます。多くの卒業生のなかでも、ヨゼフ・マリア・オルブリッヒと、ヨーゼフ・ホフマンがことに著名です。 ●オルブリッヒ●  オルブリッヒ(1867[慶応3]~1908年)がアカデミー入学時の教授は、ワグナーの前任ハゼナウアーで、オルブリッヒは、189

      • ヨーロッパの近代建築⑦ウィーンⅡ-地域のお宝さがし-128

         前回は、美術アカデミー教授就任後のワグナー(50歳後半)の作品をみましたが、今回はその後(60歳後半)の作品を紹介します。 ■郵便貯金局■  郵便貯金局の建築年は、1906(明治39)年(注1)と1906~1912年の2説があります(注2)。ワグナーの年齢は、前者では65歳、後者では71歳です。ワグナーが美術アカデミーを停年となるのが1912年、1914年まで客員教授を勤めているので、1912年の可能性もあります。  『近代建築史図集』(前掲注1)などでは、室内写真のみ

        • ヨーロッパの近代建築⑥ウィーンⅠ-地域のお宝さがし-127

          ■世紀末のウィーン■  ヨーロッパの歴史都市が近代都市へ変貌する過程は、パリをみれば分かりやすいでしょう。パリでは、オスマンが1850年代(嘉永~安政年間)から、道路・鉄道・上下水道などを整備して都市の環境を改善し、新ルーブル宮(1857[安政4]年)やオペラ座(1874[明治7]年)などが建設され、新たな都市の美観が形成されました。  ウィーンでは、1858年から市壁が撤去され、リングシュトラーセ(環状道路、以下、リング)が建設され、道路・鉄道が整備されるとともに、リング

          ヨーロッパの近代建築⑤バルセロナⅢ-地域のお宝さがし-126

          ■グエル邸(1889[明治22]年)■  筆者のバルセロナ訪問は、ガウディ建築の世界遺産登録(1984年)以前でした。当時でも、「サグラダ・ファミリア」や「グエル公園」の人気は高かったのですが、「グエル邸」の見学者は少なく、公開も限定的だったように思います。  「グエル邸」は、狭い道路に面しているため、屋上の装飾がよく見えず(図1)、放物線アーチの入口と、鉄製の装飾が印象に残っている程度でした(図2)。来客は、馬車にのったまま、放物線アーチの入口から入ったそうです(注1)。

          ヨーロッパの近代建築⑤バルセロナⅢ-地域のお宝さがし-126

          ヨーロッパの近代建築④バルセロナⅡ-地域のお宝さがし-125

          ■グエル公園■  グエル公園は、当初は分譲住宅として計画されましたが、それが頓挫したため、1922(大正11)年に、バルセロナ市に寄贈されました。公園には、正面階段の奥に「市場」、その上部に「ギリシャ劇場」、左側に「アーケード」が配されています(注1)。 注1)最初の訪問時にガイドは、「市場」は元市場、「ギリシャ劇場」はグ             ランド、「アーケード」は遊歩道と説明したが、現在は、「」の名称             が用いられている。 ●門衛館●  入口

          ヨーロッパの近代建築④バルセロナⅡ-地域のお宝さがし-125

          ヨーロッパの近代建築③バルセロナⅠ-地域のお宝さがし-124

          ■アール・ヌーボーの波及■  19世紀末、パリで流行した「アール・ヌーボー」は、ドイツへも波及します。ドイツやオーストリアでは、これ以前に曲線によるデザインが用いられていますが、これらは、どちらが早いというより、産業革命以後、各国が工業化を目指す段階において様々な情報が交錯し、新たな方向性を模索したためとみるのが良いと思われます。ただ、その契機としての「アール・ヌーボー」は、各地に大きな影響を与えました。 ■バルセロナ■  当時のバルセロナでは、「アール・ヌーボー」の影響を

          ヨーロッパの近代建築③バルセロナⅠ-地域のお宝さがし-124

          ヨーロッパの近代建築②パリⅡ-地域のお宝さがし-123

          ■地下鉄(メトロ)■  オスマンのパリ改造による、道路の整備や鉄道の敷設などで、パリは大きく発展しますが、第5回万博(1900[明治33]年)を契機に、メトロの駅が計画されます。そのデザインは、コンペにより、「A、B、Cという規模などが異なる三つのタイプの出入口の設計」(注1)が求められました。ところが、受賞作に新鮮味がないとして、他の建築家に依頼されますが、それも不調に終わり、最終的に建築家ギマールに設計が依頼されました。  ギマールは、曲線を用いた、アール・ヌーボーのデ

          ヨーロッパの近代建築②パリⅡ-地域のお宝さがし-123

          ヨーロッパの近代建築①パリⅠ-地域のお宝さがし-122

           日本の近代建築に興味をもつと、その主な源流であるヨーロッパの様相が気になります。ここでは、「筆者が見た!」彼の地の近代建築や景観などを紹介します。 ■産業革命■  ヨーロッパでは、イギリスが産業革命によって社会が工業化し、経済が大きく成長しました。これまでにない社会の変化のなかで、生活が豊かになる一方で、都市の発展と環境の悪化、庶民生活の貧困など、様々な問題が発生しましたが、それらの解決に多くの努力がなされました。  建築は、これまでの王朝や貴族の施設から、工場などが産

          ヨーロッパの近代建築①パリⅠ-地域のお宝さがし-122

          エジプトの建築-ピラミッド④-地域のお宝さがし-121

          ■建築・町の風景など■  エジプトでは、ナイル川上流のアブ・シンベルから下流へ、バスや飛行機での移動でした。どこに行ってもナイル川が身近にあり、風景の美しさに目を見張りました(図1)今回は、移動中に見た建築や町の様子などを羅列的に紹介します。  カルナクの町を歩いていて、店舗の下層部の柱にも柱頭飾り(オーダー)が施されているのには、笑いました(図2)。また、工事中とは思えないのですが、集合住宅の柱や壁から露出している鉄筋の細さには驚きます。細い鉄筋はギリシャでも見ましたが、

          エジプトの建築-ピラミッド④-地域のお宝さがし-121

          エジプトの建築-ピラミッド③-地域のお宝さがし-120

           前回は、テーベ(ナイル川西岸)の神殿を紹介しましたが、今回は、ナイル川東岸のカルナク神殿とその少し上流の神殿を紹介します。 ■中流域の神殿建築Ⅱ■  ナイル川中流域の地図を再掲します(図1)。 ■カルナク神殿■  カルナク神殿は、歴代の王により増改築がなされた神殿の複合体で、その中心が、主に新王国時代(前1567~1085年)の第19~第20王朝(前1320~1085年)に建造されたアモン大神殿です(前1570~1085年頃、図2、注1)。図2から分かるように、非常に規模

          エジプトの建築-ピラミッド③-地域のお宝さがし-120

          エジプトの建築-ピラミッド②-地域のお宝さがし-119

          ■中流域の神殿建築Ⅰ■  今回は、ナイル川中流域(図1)に建造された神殿をみていきます。 ●メントヘテプⅡ世葬祭神殿・ハトシェプスト女王葬祭神殿●  メントヘテプⅡ世葬祭神殿 首都がテーベ(現ルクソール)におかれた中王国時代(前2040~1786年)の、第11王朝(前2130~1991年)頃から、メントヘテプⅡ世葬祭神殿(前2061~2010年)のように、テラスの上にピラミッドが配された形式の神殿が建造されますが、やがて、ピラミッドがなくなり、新王国時代(前1567~108

          エジプトの建築-ピラミッド②-地域のお宝さがし-119

          エジプトの建築-ピラミッド①-地域のお宝さがし-118

           建築の歴史に興味があると、国内だけでなく海外の建築物もみたいと思うようになります。これまでに、何度かヨーロッパなどを訪れる機会がありましたが、「見る!」・「感じる!」ことで、その地の建築物に対する理解が深まるように思います。そんな、筆者が「見た!」建築物やまちなどを、時に応じて紹介します。 ■ピラミッドの発展■  エジプトの宗教は、霊魂の不滅と来世の生活を信じ、国王と神は同格と考えるもので、ピラミッドや神殿などの巨大な建築物が建造されました。ピラミッドや神殿はエジプト建築

          エジプトの建築-ピラミッド①-地域のお宝さがし-118

          建築家本間乙彦の仕事⑤-地域のお宝さがし-117

          今回は、建築家本間乙彦の教員の退職時期と設計活動をみます。 ■都島工業学校退職■  在阪時代の「公式の略歴」(第115回表1-C)によると、本間は昭和4(1929)年まで、大阪市立都島工業学校(以下、都工)建築科教諭として勤務、同年から建築設計事務所(以下、事務所)経営とありますが、学年暦から、事務所の経営は昭和4年4月以降と考えられます。  本間の事務所設立の動機は、阪口芳三郎(注1)と、「大同ビルに工材社を事務所として建築設計の業務」を始めたいといもうので、本間が、「

          建築家本間乙彦の仕事⑤-地域のお宝さがし-117

          建築家本間乙彦の仕事④-地域のお宝さがし-116

          今回は、建築家本間乙彦の教員採用や勤務の状況などをみていきます。 ■都島工業学校建築科教諭■(大正13年~昭和4年)  本間は、「公式の略歴」(第113回表1)では、大正13年(1924)3月(注1)から昭和4年(1929)までの5年間、「大阪市立都島工業学校建築科教諭」として勤務しています。 注1)『創立百周年記念都工のあゆみ』(大阪市立都島工業高校、2007年)。            退任年月は不記載であるが、学年暦より昭和4年3月と考えられる。図         

          建築家本間乙彦の仕事④-地域のお宝さがし-116

          建築家本間乙彦の仕事③-地域のお宝さがし-115

          今回からは、本間の在阪時代の経歴(仕事)などをみていきます。 ■くろふね図案店を経営するが・・■(大正9年[1920]~12年)  まず、本間の在阪時代の「公式の略歴」(第113回表1)を掲げます。 ●来阪時期とくろふね図案店●  渋谷五郎は、本間が、「昨年九月の大震災に遇つて、今大阪に来て居て・・自分で図案して自分で刺繍した紙入を同窓知誼に買つてもらひたいとまわつて居る」という話を、西村辰次郎から聞いています(注1)。この話の前半から本間の来阪時期(大正12年9月以降)

          建築家本間乙彦の仕事③-地域のお宝さがし-115