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ヨーロッパの近代建築⑤バルセロナⅢ-地域のお宝さがし-126

■グエル邸(1889[明治22]年)■
 筆者のバルセロナ訪問は、ガウディ建築の世界遺産登録(1984年)以前でした。当時でも、「サグラダ・ファミリア」や「グエル公園」の人気は高かったのですが、「グエル邸」の見学者は少なく、公開も限定的だったように思います。
 「グエル邸」は、狭い道路に面しているため、屋上の装飾がよく見えず(図1)、放物線アーチの入口と、鉄製の装飾が印象に残っている程度でした(図2)。来客は、馬車にのったまま、放物線アーチの入口から入ったそうです(注1)。

図1 グエル邸外観
図2 グエル邸入口

 ガウディの装飾は、「カサ・ミラ」の海草のような手すり、「カサ・バトリョ」の骨のような柱、「グエル公園」の「トカゲ」(ドラゴン)など、動植物をモチーフとしています。そうみると、入口右上の装飾は、「カブトガニ」のように見えます。バルセロナに、「カブトガニ」がいたかは知りませんが・・。 

注1)ウィキペディア「グエル邸」。

■グエル別邸■
 「グエル別邸」(1887年)は、ガウディ最初のグエル伯爵の仕事で、庭園を改築し、「門番小屋」・「ドラゴン・ゲート」・「厩舎」が新築されました(図3)。左端が「門番小屋」、中央が「ドラゴン・ゲート」、右側の塀に沿って内部に「厩舎」が設けられ、屋根の右端にはモザイクタイル張りの望楼が設けられています(図4)。「厩舎」は、現在、図書館に活用されています。

図3 門番小屋、ドラゴン・ゲート、塀
図4 厩舎の望楼

●門番小屋●
 「門番小屋」の開口部などの放物線アーチは、以後の作品でもよくみられます。「門番小屋」は、門に接する主屋、その奥と左側に位置する付属屋で構成され、それぞれの頂部に、青色のモザイクタイル張りの尖塔が設けられています。道路に面する外壁のタイル張りの文様は日本の「青海波」、左側付属屋の屋上の2連アーチは、イスラム建築のゼブラアーチを連想させます(図5)。

図5 門番小屋

●ドラゴン・ゲート●
 ガウディの作品には、「カサ・バトリョ」の屋根、「グエル公園」、そして、「グエル別邸」の「ドラゴン・ゲート」のように、「ドラゴン」がよく登場しますが、バルセロナには、「ドラゴン」を守護神とする文化的な背景があるようです(注2)。このゲートを見た時(図6)、これが「ドラゴン」なら、「グエル公園」の「ドラゴン」は何なのだ!と思いました。

図6 ドラゴン・ゲート

 「グエル公園」の「ドラゴン」は「トカゲ」との説明もありますが(筆者には「サンショウウオ」に見えました)、このゲートの「ドラゴン」こそ、「トカゲ」か「カメレオン」ではないかと感じました。「ドラゴン」は日本の「竜」と同じ想像上の動物ですが、やはり別物、「ドラゴン・ゲート」を「竜の門」などと訳すべきではないと思いました。

注2)下村純一『不思議な建築』(講談社現代新書、1986年)。

■サグラダ・ファミリア■
 「サグラダ・ファミリア」(以下、教会)は、1882年の着工以来、現在に至るまで建設工事が行われている、カトリック教会のバシリカです(注3)。
 建築分野で「バシリカ」というと、身廊(ネイブ)と側廊(アイル)で構成された、奥行きの長い、ロマネスク様式やゴシック様式の教会堂の平面を意味しますが、ここでは、「一般の教会堂より上位にあることを認められた」教会堂のことをいうようです(注4)。筆者は1979年に訪れ、まず、スペイン村近くの丘から教会を見ました(図7)。

図7 サグラダ・ファミリア遠望

 注3)ウィキペディア「サグラダ・ファミリア」。
注4)ウィキペディア「バシリカ」。

 現地で間近に見ると、とても大きくて全貌を把握するのが困難でした。工事が進んでいた東の塔周辺の壁面装飾や人物像には圧倒されました(図8・9)。

図8 東の塔
図9 細部

 東の塔周辺の装飾は、ガウディが自ら手を加えたそうで、複雑な形態になっていました。当時見た内陣のアプス周辺が(図10)、2度目の訪問の際には左側の壁面が形成され(図11)、細部の装飾なども進んでいました(図12)。

図10 内陣アプス周辺
図11 内陣アプス周辺(2度目)
図12 尖塔の装飾

 教会の全体像は図面などで把握されますが(図13)、完成のあかつきには、予想図と比べて見たいものです。

図13 完成予想図

■ガウディの評判■
 戦前に渡欧した建築家は、多様な建築を見学をしています。その回想録(注5)はとても興味深いものです。ここでは、同書から、当時のガウディ建築の感想をみてみましょう。

 藤島亥治郎(1926~1928年渡欧・渡米) 藤島は、東京帝国大学卒業(1923年)後、京城高等工業学校に勤務し、1926年から2年間、在外研究員として外遊します。ガウディについては、「あのサグラダ・ファミリアは非常に好きです。・・他の作品はアパートもグエル公園の階段なども好きではありませんね。なにか中途半端で、少しグロであり過ぎるのではないでしょうか。」と、短いコメントしか残していません。「サグラダ・ファミリ」は、着工後40余年を経て、それなりの外観が現れていたと思われます。

 藤島のいう「アパート」とは、「カサ・ミラ」でしょう。「グエル公園」の階段の「グロ」というのは、海草のような手すりのデザインや、「トカゲ」のことと推測され、笑ってしまいました。

 今井兼次(1926~1927年渡欧) 今井は、早稲田大学卒業(1919年)後、同大学に勤務し、ヨーロッパの近代建築などの調査・研究のために外遊します。丁度、藤島と同じ時期です。今井は、ガウディを1921年ころに雑誌で知り、「心魅かれて」バルセロナへ行くのですが、ガウディは亡くなっていました。今井のガウディに対する予備知識は、日本で読んだ雑誌の記事によりますが、その分量は少なかったようです。スペインでガウディが評価されはじめたのは、「いまから十年位前」とことです。回想録の出版が1977年ですから、1960年代後半と考えられます。

 今井は、ガウディの日本への紹介者であり、その影響を受けた作品として、「日本二十六人聖人殉教記念施設」(1961年)(図14)や「糸車の幻想」(幅18m・高さ12m、1961年)があります(図15・16)。

図14 日本二十六人聖人殉教記念施設
図15 ビルの屋上に設置
図16 ギャラリーに移転

 ビル(大阪市中央区本町)の屋上に設置された「糸車の幻想」は、ビルの建て替えに伴い、地上近くのギャラリーに移転され、見やすくなりました。

注5)佐々木宏編『近代建築の目撃者』(新建築社、1977年)。

■閑話休題■
 ガウディが自国で評価され始めるのが1960年代後半。1967年に国連が「国際観光年」を定め、世界の観光客数が増加します。それに伴い、日本を含む国際観光客がバルセロナを訪れるようになりました。結果、その収益が、「サグラダ・ファミリア」の建設を促進させたと考えると、60年代後半は、「スペインのガウディ」から「世界のガウディ」に飛躍した時期と考えられるのではないでしょうか。

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