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ヨーロッパの近代建築⑥ウィーンⅠ-地域のお宝さがし-127

■世紀末のウィーン■
 ヨーロッパの歴史都市が近代都市へ変貌する過程は、パリをみれば分かりやすいでしょう。パリでは、オスマンが1850年代(嘉永~安政年間)から、道路・鉄道・上下水道などを整備して都市の環境を改善し、新ルーブル宮(1857[安政4]年)やオペラ座(1874[明治7]年)などが建設され、新たな都市の美観が形成されました。

図1 オペラ座
図2 市庁舎
図3 市庁舎(細部)

 ウィーンでは、1858年から市壁が撤去され、リングシュトラーセ(環状道路、以下、リング)が建設され、道路・鉄道が整備されるとともに、リングに沿いに、オペラ座(1869年注1、図1、折衷様式)、市庁舎(1883年、図2・3、ゴシック・リヴァイヴァル)、国会議事堂(1883年、図4・5、新古典主義)、美術史美術館(博物館ともいう。1891年、図6、ネオルネサンス様式)などが建設され、「歴史主義建築を象徴する都市計画」(注2)にもとづく、近代都市へと変貌します。

図4 国会議事堂
図5 ペディメント
図6 美術史美術館

●世紀末の建築様式●
 西洋における建築様式の変遷は、必ずしも一様ではなく、近世末期のバロック様式やロココ様式による、自由奔放な構成や複雑な装飾に対し、伝統的な様式が見直され、19世紀前期にギリシャ様式やローマ様式を規範とする新古典主義(ネオクラシシズム)が全盛期をむかえ、中期にはネオルネサンス様式、ネオバロック様式が勃興し、末期には様々な様式が復興(リヴァイヴァル)されます(注3)。

 この変遷から、リング沿いの建築をみると、オペラ座は、バロック様式(外観)とロマネスク様式(開口部の半円アーチ)による「折衷様式」、その他は、概ね年代と様式が相応しているようです。また、「歴史主義建築」は、新古典主義以降の様式建築とみてよいでしょう。

注3)『[カラー版]西洋建築様式史』(美術出版社、1995年)。

■オットー・ワグナー■
 ワグナー(1841[天保12]~1918[大正7]年)は、1857~1859年、ウィーンの「高等学校程度の工業学校」(注4)で学び、1860[万延元]~1861[文久元]年、ベルリンの「帝室建築学院」で新古典主義の建築を学びました。1860~1863年、ウィーン美術アカデミー(以下、アカデミー)に入学し、ファン・デア・ニルとジッカルツブルグ(オペラ座の設計者)について建築学を「専攻」し、22歳(1863年)で市立公園に建つ「会館建築の競技設計」で1等に入選しましたが、実現されず、実現した建築は、「醜悪な作品」とあることから、「歴史主義建築」と推測されます。

 この後、ワグナーがアカデミー教授就任(1894年)までの作品として、「理想案(アルティブス)」(1880年)、「シュタディオン街の貸屋建築」(1883年)、「ヒッテルドルフのワグナー別荘」(1888年)、「儀礼装飾」(1889年)、「銀行建築平面」(1889年)、「オットー・ワグナー家の墓」(1894年以前)などが知られています。この間、1890年にウィーン市都市計画顧問就任、翌91年に作品集を刊行しています。そして、1894年、「過去建築最後の大家」ハゼナウアー(ブルグ劇場・美術史博物館の設計者)の後任として、アカデミー教授に就任するとともに、都市計画顧問を兼任し、鉄道駅舎や橋梁の設計をします。

注4)岸田日出刀『オットー・ワグナー』(岩波書店、1927年)。同校は、           現「ウィーン工科大学」の前身である、「帝国王立高等工業学校」               (ウィキペディア「ウィーン工科大学」と思われる。なお、経歴の概要           は、ウィキペディア「オットー・ワーグナー」による。ワグナーに関             する記述で断らない場合は同記事により、「」は同書よりの引用。ワ             グナー以外の人物名の表記は、ウィキペディアによる。

●ワグナーの建築理論●
 教授就任の翌1895年『現代建築』を刊行し、「歴史主義建築」が林立する世紀末のウィーンにおいて、「新しい建築を生み出す設計の原理」、すなわち、①目的を正確にとらえて、これを完全に満足させる。②材料の適当な選択。③簡単にして経済的な構造。④以上を考慮したうえで、きわめて自然に成立する形態を掲げました(注5)。

注5)桐敷真次郎他『建築史』(実教出版)。『現代建築』は、樋口清訳             『近代建築』として、刊行(中央公論美術出版、2012年)されている。

 この4項目から、美術アカデミーにおける「歴史主義建築」の教育が、「新しい建築の設計原理」による教育へと方針が変更されたことが窺えます。この頃のワグナーの作品をみてみましょう。

マジョリカハウス(1899年)

図7 マジョリカ・ハウス

 マジョリカハウス(図7)は、左側に隣接する「歴史主義建築」と比べて、華やかな色彩のマジョリカタイルで仕上げられた植物文様の平坦な壁面、彩色された軒裏、窓はシンプルな竪長窓で構成されています。ベランダの鉄骨製の手すりと柱も植物文様に加工されていて、アール・ヌーボーの影響が窺われます(図8、もっとも、ウィーンやドイツでは、ユーゲント・シュティールですが)。立体的な装飾は、最上部のライオンの顔くらいでしょう(図9)。 

図8 ベランダ
図9 壁面上部
図10 メダイヨン・マンション

 右側に隣接するメダイヨン・マンションも、「マジョリカハウス」に似た壁面構成ですが、オーダーを思わせる突出した柱型、屋上の人物像などに装飾性が見られます(図10)。装飾は、ウィーン分離派のコロマン・モーザー(1868~1918年)の作品で、「マジョリカハウス」と同様ユーゲント・シュティールの建築です。

地下鉄道停車場入口

図11 地下鉄道停車場入口
図12 停車場屋内
図13 入口脇の柱・梁

 「マジョリカハウス」の近くの駅舎が、小規模ながら瀟洒な外観(図11)、屋内の壁面に描かれた植物文様(図12)、入口両脇の柱や梁に施された植物文様の装飾などがユーゲント・シュティール風で(図13)、素敵な建築だと思っていたら、ワグナーの作品でした(注6)。年代は、「1894-1897」とあるだけで特定できませんが、1897年としても、「マジョリカ・ハウス」より早い作品です。 

注6)前掲注4)『オットー・ワグナー』に、ウィーン市鉄道の建築(1894-           1897)として掲げられた3点のうちの1点で、「地下鉄道停車場入口」           と記載されている。

カールスプラッツ駅(1899年)

図14 カールス・プラッツ駅

 「カールス・プラッツ駅」(図14)は、「マジョリカ・ハウス」と同じ年の作品です。双方を見比べてみると、植物文様は共通していますが、華やかな色彩の「マジョリカハウス」に対して、「カールス・プラッツ駅」は、金色が多く用いられ、建築の用途の違いと色彩が関係あるのかと勘ぐってしまいます。金色を多用するのは、既述の「メダイヨン・ハウス」も同様です。また、ダルムシュタットの芸術家村の建築(別稿)にも見られますが、西洋建築に詳しくない筆者は、ビザンチン建築を連想してしまいます。

 一方、外観を図11と比較すると、正面を3分割し、中央を出入口、左右を壁面とする構成は同じですが、図14では、壁面がさらに4分割され、垂直性が強調されています。出入口は、図11では、方形屋根の四方に下屋を葺き、正面はさらに庇を設けていますが、図14では、正面から奥に半円のヴォールト屋根を架け、その上部に小さな半円ヴォールトの越し屋根が架けられています。屋根の形態は異なりますが、正面を強調するデザインは共通していて、同時期の作品と感じられます。

■閑話休題■
 国会議事堂(図4)に、「ギリシャ古典」が採用されているのは、新古典主義のなかでも、「最上級の権威づけの衣」としての意味があります。この議事堂は、建築家志望だったヒトラーを感激させ、リングはヒトラーの「都市造営思考の出発点となった」そうですが(注7)、一方で、当時のベルリン市長リッペルトは、「ヒトラーの建設プランに興味がなかった」との指摘もあります(注8)。
 市庁舎(図2)に、「ゴシック」(ゴシック・リヴァイヴァル)が採用された根拠は、「ゲルマン民族などが自治都市を成立させ、地中海世界に対抗しうる存在となった中世の様式」であるゴシックこそが、「市民のための庁舎にふさわしいとの判断」によるものだそうです(注9)。
 このような記事を読むと、西洋の建築と様式には確固とした関連があることを改めて感じます。

注7)「奇想遺産 オーストリア国会議事堂」(朝日新聞、2007年4月8日)
注8)アルバート・シュペール『ナチス狂気の内幕』(読売新聞社、1971               年)
注9)「奇想遺産 ウィーン市役所」(朝日新聞、2008年3月16日)

次回は、ワグナー晩年の作品を紹介します。

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