ヨーロッパの近代建築⑧ウィーンⅢ-地域のお宝さがし-129
■ワグナーの教え子■
ワグナーが、ウィーン美術アカデミー(以下、アカデミー)教授に就任した翌年(1895[明治28])年に刊行された『現代建築』(注1)は、講義のテキストと推測されますが、その薫陶を受けた学生が建築界で活躍して行きます。多くの卒業生のなかでも、ヨゼフ・マリア・オルブリッヒと、ヨーゼフ・ホフマンがことに著名です。
●オルブリッヒ●
オルブリッヒ(1867[慶応3]~1908年)がアカデミー入学時の教授は、ワグナーの前任ハゼナウアーで、オルブリッヒは、1893年、26歳でローマ賞を受賞しています(注2)。翌1894年にワグナーが教授に就任し、卒業後はワグナーのアトリエで助手をしています(注3)。
注1)『建築史』(市ヶ谷出版、1998年)。樋口清他訳では、『近代建築』 としている。
注2)ウィキペディア「ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ」。ローマ賞につい ては、ウィキペディア「ローマ賞」参照。
注3)岸田日出刀『オットー・ワグナー』(岩波書店、1927年)。ワグナー の教え子に関する記述で断らない場合は同書による。「」は、同書よ りの引用。
●ホフマン●
ホフマン(1870~1956[昭和31]年)も、アカデミー入学時の教授はハゼナウアーで、ワグナーの教授就任時、ホフマンは24歳でした。「ワグナーの仕事場で・・オルブリッヒの知己を得て」いることから(注4)、ホフマンもワグナーのアトリエで働いていたものと思われます。ちなみに、ホフマンはアカデミー卒業に際し、ローマ賞を受賞しています(注5)。
注4)ウィキペディア「ヨーゼフ・ホフマン」。」
注5)池内紀他『世紀末ウィーンを歩く』(新潮社、1998年)。ホフマンに ついては、作品を見ていないので、これ以上触れない。
■ウィーン分離派■
世紀末のウィーンにおける芸術家団体は保守的で、それに不満をもつ、画家グスタフ・クリムトを中心とする若手芸術家は、1897年に新進芸術家グループ「ウィーン分離派」を結成し(注6)、オルブリッヒとホフマンも参加します。翌年には、展示施設の「セセッション館」(以下、会館)が建設され、展覧会が行われます。ことに、工芸作品の展示が、芸術家団体と大きく異なるところでした。
2年後にはワグナーも参加しますが、保守的思考が強い社会に受け入れられず、ワグナーのウィーン博物館の設計案(1900年)は、1次入選(8案)したものの、「保守派の妨害にあって葬り去られ」(注7)ます。さらに1904年、ワグナーは、退職教授の後任に31歳で「会館」を設計したオルブリッヒを推薦しますが、アカデミー側が認めませんでした。その理由は、「一般に過去様式直写の建築家が歓迎されていた結果、オルブリッヒの如き新しい思想の持主は好遇されなかった」(前掲注3)とみられています。
まあ、まちを歩いていても、当たり前のように建築に人物像が装飾されているのですから(図1、注8)、多くの人々は、エッフェル塔のように、装飾の少ない新しい建築を受け入れるには、多くの時間が必要だったのでしょう。
注6)ウィキペディア「ウィーン分離派」。同派に関する記述は、同記事に よる。展示施設の「セセッション館」は、「ゼツエッション館」「分 離派会館」ともいう。
注7)『新訂建築学大系6近代建築史』(彰国社、1970年)。
注8)後日これと同じ写真が、『地球の歩き方ウィーンとオーストリア』 (ダイヤモンド社、2006年)に掲載されていることに気がつき驚いた。
●セセッション館●
「会館」は、1898年、すなわち明治31年に完成しています(図2)。日本での本格的な様式(洋式)建築の移入は、明治10年に来日したジョサイア=コンドル以降ですが、コンドルの指導により、学生達は様式建築の学習・研究につとめ、20年後には日本銀行本店(図3、1896年、設計:辰野金吾、注9、)を完成させています。このような点から、明治期が様式建築の学習期と評されているのでしょう。
日本人建築家が様式建築を懸命に学習・習得している時期に、すでにオルブリッヒは、様式建築を乗り越えた、装飾の少ない建築を設計していたのです。「会館」の入口周辺の植物文様や人面に蛇が巻き付く装飾などは(図4)、今見ると装飾が多いと思われますが、「会館」左側(図5)や背後に残されたバロック建築を見ると、従来の装飾と異なることがわかります。内部は、現代建築と違いはないように思われますが(図6)、年代を確認すると、やはり明治建築です(図7)。
大正12(1923)年に渡欧し、「会館」をみた堀口捨己は、のちに、「あれはセセッションの起こりであって、新建築の起こりですね。」と評価し、同館と、「ルードウィッヒ太公結婚記念塔」などが、「私が心を魅かられたもの」としています(注10)。「会館」完成から、約25年、日本人建築家は、明治時代の学習期を経て、大正時代の応用期に達していたのです。ちなみに、この書籍(注10)が発刊された当時の「会館」の評価は、「国宝扱い」になっていたようで、時間の経過がセセッションを受け入れたのでしょう。
注9)『明治大正昭和建築写真聚覧』(文生書院、2012年)より転載。
注10)『近代建築の目撃者』(新建築社、1977年)。
■アドルフ・ロース■
アドルフ・ロース(1870~1933年)は、オルブリッヒより3歳下、ほぼ同世代の建築家です。23歳で渡米し、ニューヨークの建築事務所で働き、アメリカから多くのことを学びました。ウィーンでは、「装飾は罪悪である」と主張して(注11)、無装飾の建築を設計します。こういう点から、ワグナーの建築理論(第127回参照)を、「厳格に実践し、発展させた」(前掲注1)人物として評価されています。
注11)ウィキペディア「アドルフ・ロース」。
●ロースハウス●
「ロースハウス」(図8・9、1911年)は、その代表作です。筆者の第一印象は、正面の列柱に様式性が感じられますが、特に違和感はなく、素敵な建築だと思いました。
ただ、ロースハウスは、正面が「スペイン乗馬学校」(図10)、左右にもバロック建築が密集した地区に立地しています。このような地区での建設に、「ウィーン市民の大半が激昂」しますが(前掲注5)、「最終的に窓辺に花壇をつけることで建設が許可」されました(前掲注11、図11)。窓辺に花壇をつける程度で、バロック建築で形成された周囲の景観と折り合いがつくとは思えないのですが・・。
■閑話休題■
ウィーン市内の建築をいくつか見てみましょう。
天使薬局(図12)は、ワグナーの門下生、オスカー・ラスケ(1874~1951年)の設計で、1902年に完成しました(注12)。入口左右に描かれた天使とその手にからむ蛇、その上部には植物文様が施された、ユーゲント・シュティール(ドイツ版アール・ヌーボー)の作品です。蛇は、ギリシャの医学の神に由来すると聞くと、それで薬局に蛇かと納得しますが、では「会館」の蛇は何に由来するのか、気になるところです。
一方、わが国では、蛇は金運の神様で、財布に蛇の抜け殻を入れておくとお金が貯まると、子供の頃に聞いたことがあります(未だにご利益はありませんが)。また、商業高校に進学した友人から、蛇は商業の神様だから校章に蛇がデザインされていると聞いたことを思い出し、調べてみると、本当でした(図13)。「所変われば、品(神様)変わる」。これには妙に納得しました。
注12)松葉一清「奇想遺産 天使薬局」(朝日新聞、2007年10月21日)。
レッティ蝋燭店(図14)は、ハンスホライン(1934~2014年)の設計で、1965年に完成しました。学生時代に、作品集で見たことがあったので、懐かしく感じました。当時は、金属質の外壁や幾何学的な出入口・窓に気を取られましたが、改めてみると、上部や左側の装飾豊かな建築に挟まれている立地に、無装飾な建築を完成させる、建築家の心意気が感じられました。
次回は、オルブリッヒが建設に関わった、ダルムシュタットの芸術家村を見ます。