ヨーロッパの近代建築⑨ダルムシュタット-地域のお宝さがし-130
■ダルムシュタット■
ダルムシュタットはかつてはヘッセン大公国と称されましたが、現在はドイツ連邦共和国ヘッセン州南部に位置する都市です。1892(明治25)年に第5代大公を継承したエルンスト・ルートヴィッヒは、1899年に「芸術家コロニー」(以下、コロニー)をマチルダの丘に創設し、ユーゲント・シュティール運動を応援します(注1)。
ルートヴィッヒから「コロニー」の建設を託された、セセッション館(1893年)の設計者オルブリッヒは、ダルムシュタットに移住し、「コロニー」内の住宅や展示会場など、多くの施設を設計します(注2)。この仕事において、オルブリッヒは、「アール・ヌーボーのオーストリア版」(注3)からの離脱を企図しています。さらなる、装飾からの脱却を目指したのでしょう。
注1)ウィキペディア「エルンスト・ルートヴィッヒ(ヘッセン大公)」。
注2)ウィキペディア「ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ」。マチルダの丘 は、2021年に世界文化遺産に登録された(ウィキペディア「ダルムシ ュタット」)。
注3)ユーゲント・シュティールを示していると考えられる(『新訂建築学 大系6近代建築史』、彰国社、1970年)。
●芸術家コロニー●
筆者が「コロニー」で見たのは、「展覧会場」(以下、会場)・ヘッセン大公の「結婚記念塔」(以下、記念塔、ともに1907年)、「ベーレンス邸」(以下、自邸、1901年、注4)、ロシア正教会聖堂です。
展覧会場(図1~4) マチルダの丘に近づくと、「会場」の向こうに「記念塔」が見えます。周辺のコンクリートのパーゴラや段差が設けられた空間構成は、変化に富んでいて楽しく歩くことができました。
ヘッセン大公の結婚記念塔(図5) 「記念塔」の壁面はレンガ張りで、側面に設けられたモザイクによる日時計のほかに装飾はなく(前掲図3)、開口部の位置などで外観に変化が付けられています。頂部の形態は、結婚の宣誓をするときの手を意匠化したものです。これが明治40年の作品と思うと、本当に驚きです。装飾が施されていない「記念塔」と「会場」の意匠については、「完全にオルブリッヒ自身の作風が確立していると」と評価されています(前掲注3)。
堀口捨己は、大正11(1922)年に上野公園で開催された、「平和記念東京博覧会」において、平和塔などを設計しており(図6、注5)、この塔について、「ヘッセン太公(ママ)のために建てた結婚記念塔を思わせるものがある」との評があります(前掲注3)。
大正12年に渡欧した堀口は、セセッション館や「記念塔」に、「心魅かれた」と語っています(注6)。それ以前から雑誌などでオルブリッヒの影響をうけ(注7)、実物をみて、「結婚記念塔はこのセセッション館より十年ほど後ですが、意匠の上ではもはやアール・ヌーボーの影響がまったくなくなった新しい時代の姿で、しかも独創的なもの」(前掲注5)との実感を得たのでしょう。
ベーレンス邸(図7) ペーター・ベーレンス(1868~1940年)は、ミュンヘンで画家として活動を始め、アール・ヌーボーによる応用芸術に移り(前掲注3)、さらに、「ミュンヘン分離派」に参加し、後に建築家に転じています。「ミュンヘン分離派」は、「ウィーン分離派」(1897年)より早い1892年に結成され、ベーレンスはそのメンバーとして活動しています(注8)。この実績で「コロニー」に招かれたのでしょう。ここで、建築家としての最初の仕事である「自邸」を1901年に完成させています。
「自邸」の意匠について、「アール・ヌーボーの柔らかな曲線を硬化させている」(前掲注3)との評価から、「ユーゲント・シュティール」から次の段階(モダニズム)への移行が窺われます。ベーレンスは1903年に「コロニー」を退去、1907年にベルリンで建築事務所を開設し、初期モダニズムの代表的作品といわれる「A.E.G.のタービン工場」(1907年)を設計します。この事務所には一時期、ワルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジェも在籍しています。
ロシア正教会聖堂(図8・9) 「会場」や「記念塔」とともに立地するこの聖堂を見たとき、金色に輝く装飾からサンマルコ寺院を連想しました。コの字型にドリス式オーダーが配された池を通して見る聖堂は、見応えがありました。
注4)「」付きの建築名称と年代は、『近代建築史図集新訂版』(彰国社、 2012年)による。
注5)ウィキペディア「平和記念東京博覧会」。図6は同記事より転載。
注6)佐々木宏編『近代建築の目撃者』(新建築社、1977年)。
注7)堀口の帝大の3年後輩にあたる藤島亥治郎は、学生時代に、「古い『モ デルネ・バウフォルメン』」に掲載された2頁大の「記念塔」(色彩付 き)を、薄紙をあててコピーしたと(前掲注5)で語っている。
注8)ウィキペディア「ミュンヘン分離派」。
■閑話休題■
●ジャポニスムの影響●
パリを中心とするヨーロッパの近代建築は、「アール・ヌーボー」などのようにジャポニスムの影響を受けますが、分離派はその影響から脱却するため、曲線から直線的な意匠に移っていくようです。その結果、無装飾の建築が姿を現し、それを見た日本人建築家がその影響をうける。まるでジャポニスムがヨーロッパを周遊し、発展しながら本家(日本)に戻ってきたように思われます。
●ウィーンの現代建築●
前回紹介できなかったフンデルトヴァッサー(1928[昭和3]~2000[平成12]年)の作品を見ます。日本でも「百水」の号で知られるヴァッサーは(注9)、画家・建築家などとして、環境問題にも積極的に発言しました。
ヴァッサーハウス(図10~12、1986年)は、伝統的建築で構成される町並みの角地に建つ集合住宅です。段差を利用した変化に富んだ空間と豊かな緑の空間が、多くの人を魅了しています。ピロティのタイル張りの柱は、不思議なほど建築に溶け込んでいます。
シュッピテラウ焼却場(図13、1992年)はゴミ焼却場ですが、外観からはみじんも感じるところはありません。また同様の施設が大阪にも建設されています。
注9)ウィキペディア「フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー」。
大阪のヴァッサー作品(図14~17)
スラッジセンター入口のピロティの柱は、ヴァッサーハウスにそっくり。また、美しい水路にモザイクが似合っています。処理水を利用した水路は大阪市内でも見られますが、緑が多いこの水路はそれらの中でも屈指のできです(大阪の人工水路については第71回参照)。
次回は、「ユーゲント・シュティール」のその後について紹介します。