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ヨーロッパの近代建築③バルセロナⅠ-地域のお宝さがし-124

■アール・ヌーボーの波及■
 19世紀末、パリで流行した「アール・ヌーボー」は、ドイツへも波及します。ドイツやオーストリアでは、これ以前に曲線によるデザインが用いられていますが、これらは、どちらが早いというより、産業革命以後、各国が工業化を目指す段階において様々な情報が交錯し、新たな方向性を模索したためとみるのが良いと思われます。ただ、その契機としての「アール・ヌーボー」は、各地に大きな影響を与えました。

■バルセロナ■
 当時のバルセロナでは、「アール・ヌーボー」の影響を受けながらも、新たな建築表現の「モデルニスモ」が流行し、ことに、アントニ・ガウディ(1852~1926年)、リュイス・ドメナク(1850~1923年)、ジュゼップ・プッチ(1867~1956年)(注1)の活動がめざましいことから、この3人はモデルニスモ建築の「三巨匠」と評されています(注2)。

 ガウディの生年は日本では幕末の嘉永5年にあたります。翌年にペリーが浦賀に来航し、幕末の動乱が始まる時期です。ガウディは幕末に生まれ、昭和元年に逝去しました。この時期日本は、明治時代の近代建築学習期、大正時代の応用期を経て、独自の発展をする時期です。ガウディの建築は、大正時代の建築家に影響を与えたとみられます。

注1)3人の生没年は、各人のウィキペディアによる。
注2)ウィキペディア「モデルニスモ」。

●カサ・ミラ(1910[明治43]年)●
 筆者が初めてガウディを知ったのは、工高2年生の「西洋・近代建築史」でした。当時、『建築史』は、2人の先生が「日本建築史」と「西洋・近代建築史」を担当していました。「日本建築史」で習った建築は、奈良や京都へ見にいきましたが、外国の建築は、教科書の写真を見る程度でした。「カサ・ミラ」を見たとき、こんな、「ぐにゃぐにゃ」な壁面の建築があるのか、どうして建てたのかと不思議に思いました(図1、注3)。

図1 カサ・ミラ

 というわけで、昭和54年(1979)、バルセロナを訪れたさいに、まず、「カサ・ミラ」を見に行ったところ、街路樹の向こうに見える外観に何の違和感もなく、「エッ!」という感じでした(図2)。外観は景観になじみ、壁面は力強く、細部には繊細な装飾が施され、それらがうまく調和していると思いました。

図2 カサ・ミラ正面
図3 側面
図4 バルコニー床面
図5 入口

 現在の「カサ・ミラ」は博物館のようですが、当時は、集合住宅で多くの入居者がいました。各階のバルコニーに施された、海草のような手すりのデザインは多様で、波打つ壁面によく似合っています(図3)。また1階上部のバルコニーの床面にはガラスがはめ込まれ、採光の工夫がなされていて、単なるデザインだけでなく、機能面にも注意が払われています(図4)。このバルコニーのデザインは、「協力者」ジュジョール(後述)によるものです。入口は、外壁面から凹んだ位置に設けられ、蜘蛛の巣のような金属枠にガラスがはめ込まれています(図5)。

図6 カサ・ミラ1階中庭

 居住者が多く、内部に入るのを拒まれているようで躊躇しましたが、1階の中庭までは入ることができました。小さな中庭に面して階段が設けられ、光庭の空間は静かで快適でした(図6)。

注3)『建築史』(市ヶ谷出版、2002年より転載)

●カサ・バトリョ(1906年)●
 「カサ・バトリョ」(図7)は、「カサ・ミラ」の近くにあります。ガウディによる「カサ・バトリョ」は、1877年に完成された「カサ・バトリョ」(5階建て)に、6階(アパート)と7階を増築したものです(注4)。増築の契機は、左隣の「カサ・アマトリェール」(後述)より、高くするためであったといわれています。ガウディによって、「カサ・バトリョ」の外観は大きく変化しました。

 「カサ・バトリョ」は、個人の住宅ですが、正面の柱の形態が「骨」を想起させることから「骨の家」(図8・9)、屋根のデザインは、「ドラゴンの背中」のようだともいわれています(注5)。図7は、2度目に訪れた際の写真ですが、バルコニーに注目すると、最初に見た時は手すりに塗装はなく、その後に塗装が施されているのが分かります(図10・11)。この手すりは、「舞踏会の仮面のよう」だと比喩されています。

図7 カサ・バトリョ正面
図8 正面1階柱
図9 正面2階柱
図10 バルコニー手すり(塗装前)
図11 バルコニー手すり(塗装後)

 これらのファサード(正面)のデザインは、ガウディが「協力者」ジュジョール(1879~1949年)(注6)に任せた最初の仕事で、「協力者」は、自分の裁量で仕事を進めることができるところが、「助手」と異なる点だといいます。

 図7左側、屋根が階段状の「カサ・アマトリェール」(1900年、設計:ジュゼップ・プッチ)は、「カサ・バトリョ」より少し前に建築されています。また、「カタロニア音楽堂」(図12、1908年、設計:リュイス・ドメナク)は、「カサ・バトリョ」の少し後の建築です。使用中のため、中には入れませんでした。

図12 カタロニア音楽堂

注4)森枝雄司『ガウディの影武者だった男』(徳間書店、1992年)。ガウ          ディ作品に関する記述は、断らない場合は、同書による。
注5)ウィキペディア「カサ・バトリョ」。
注6)生没年は、ウィキペディア「ジュゼップ・マリア・ジュジョール」に             よる。

■閑話休題■
 最初の訪問時には、プッチやドメナクの作品は、「知る人ぞ知る」といった建築で、ガウディほど注目度は高くなかったように思います。しかし、偶然にも「三巨匠」の作品に接することができたのは幸運なことでした。

 これらの建築は、日本では明治時代後期の明治建築です。当時の日本では、雑誌でこれらの建築の情報を得ていたでしょうが、その斬新さに驚嘆したと思われます。

次回はグエル邸・グエル公園を紹介します。

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