#無意識
なにもしない、って。
なにもしないを
何かすることで実現しようとしちゃうんです。
ただただなにもしないだけなんですが、
ついつい、今までやっていたこととは
反対のことをすることで、
やっていない感を得ようとしたり、
なにもしないぞっ、と
ガチガチに固めてしまったり、
何にも起こっていないんだあ、と
起こっていることを無視したり、
なにか「する」ことで、
なにもしないをしようとしてしまいがちです。
別の何かをしようと
選ぶは、いいこと。。。
選択できることがいいことだといってきましたが、
違うかもしれない。
身体の声を中心にした時、
それは選ぶなどとは違うことがあるんじゃないかなと。
自分が苦しいことをしていると、
感覚が信頼できるものになった時
身体が苦しいと聞こえてくると、
それは選択の余地なく
やめる、ということになるはずで、
苦しいという声が身体から聞こえてきた、
さて、どっちを選びますか、
ということにはならないと思うん
見ているものと集中。
集中ってどんなイメージがありますか。
先日合奏練習をしている時のことです。
指揮者が来る前、
指揮者のところに近い方が
リードしてくれていて基礎的な
和音の練習をしていたんです。
練習に参加していた方は
そのリードしてくれている人の動きを
見て、その方を注視していたんだと思います。
そうすると、
音がリードしてくれている方に向かって
集まっていたんですよね。
見ているところに集中しているが
自分は一人じゃない。
また養老孟司さんの講演での話から。
てんかんで発作が左右どちらかの脳で起こるので
脳を左右で切り離した手術をした方のエピソード。
(昔はこういう無茶なことをしたんです)
(発作が起こらない方の脳を守る目的もあったようですが)
その方が家を出ようとする時に靴下を履こうとしたんですね、
それがなかなか履けない。
ビデオを撮っていたので何をその方がやっていたのかわかるんですが、
なんとその方靴下を履い
今までやってきたことをやめる方へ。
自分一人で正しいことや間違っていると思えていることって
よくある氷山の例えでいうと、
海面より出ている部分、表層部分でしかないんだと思います。
海面より下にある部分、これこそが向き合うもの。
しかも自分一人では自覚できないもの。
直接は自覚できないんです。
行動を通してでしかわからない。
動きとして出てきたものを通してでしかわからない。
無意識は筋肉翻訳されることで
やっと、そうかもしれない
意図していない動き③ やめたいのにやってしまう。
やりたくなくても、やらないと決めても、やってしまうこと。
歩き出すときにどちらの足から出しますか?
特に決めていなくても大体同じ方の足から出すのではないでしょうか?
いつもとは違う方の足から出すと違和感がすごいと思います。
習慣的な動きって何も考えなくてもできるようになっているから便利なんです。
考えなくてもできるので、その分他のことにまわせる。
車の運転なんかもそうですよね。
アクセルブレ
新しいことをやるための3つの選択肢
何か新しくやってみようというものを始めるにあたって役に立つ練習です。
① やってみようという新しいことをやる
② 何もしない
③ 別のことをする
この3つを選択する時に大事なことは、はじめのうちは①をなるべく選ばないこと。やろうということを決めて、それを思いながら②や③を選ぶ。
たったこれだけです。
でも、これがなかなか深いんですよね。
一見簡単そうだしやる意味あるの?って思いませんか?