【書評】『自動車の社会的費用』宇沢弘文 著 ~モータリゼーションに警鐘を鳴らした慧眼の書~
0.はじめに
宇沢弘文の『自動車の社会的費用』を読みました。以下の動画を見て本作を知ったのがきっかけです。
タイトルでわかる通り、モータリゼーションの問題点をあぶり出し、その対策を提言した本です。1974年に出版されました。当時は日本が本格的なクルマ社会を迎えると同時に、公害問題も深刻化している、そんな時期でした。
驚くべきは作者の慧眼で、クルマ社会が浸透するとどうなるかを的確に見抜いています。最近でこそヨーロッパや日本の宇都宮などで路面電車が再評価されていますが、当時は自動車の邪魔になるという理由で除け者扱いされていきました。そんな時代に一石を投じた本著の意義は大きいでしょう。
その後中心街が衰退し、クルマ社会の弊害が露呈。対策は避けられなくなりました。もっと早く対策しておけばよかったのですが、目先の利益に溺れた人間たちに先を見通す力はなかったようです。執筆当時と現在とで道路・人口・産業構造などの状況が違うことは留意すべきものの、今読んでも多くの示唆を与えてくれる本だと思います。
1.構成
序章
1.自動車の問題性
2.市民的権利の侵害
Ⅰ 自動車の普及
1.現代文明の象徴としての自動車
2.自動車と資本主義
3.アメリカにおける自動車の普及
4.公共交通機関の衰退と公害の発生
5.一九七三年の新交通法
Ⅱ 日本における自動車
1.急速な普及と道路の整備
2.都市と農村の変化
3.非人間的な日本の街路
4.異常な自動車通行
Ⅲ 自動車の社会的費用
1.社会的費用の概念
2.三つの計測例
3.新古典派の経済理論
4.社会共通資本の捉え方
5.社会的コンセンサスと経済的安定性
6.市民的自由と効率性
7.社会的共通資本としての道路
8.自動車の社会的費用とその内部化
Ⅳ おわりに
2.読解・感想
・自動車を利用する場合、購入費用やガソリン代という代価を払うだけでは済まされない。外部不経済としての損害に対し、炭素税などを課してそれを補償させなければならない。
→道路(人々の生活に必要な社会的資源)を走らなければならず、走行すれば市民への影響を避けられないから
・日本は可住面積当たりの自動車台数が高い
→山地、河川が多い島国であり、自動車の走行は市民へ悪影響を与えやすい
・歩行者と自動車の動線が分離されていない
→交通事故、排ガス、騒音問題の温床となっている。街路樹の設置などで歩行者と自動車の動線を分離する必要がある。
・交通犯罪の増加
→誘拐、逃走車両としての使用など。近年では轢き逃げや煽り運転も社会問題化。
・自動車普及の要因
→自動車による外部不経済の費用を運転者に負担させてこなかったので、安価で快適なサービスを享受できたから
※鉄道との比較
鉄道→運賃が必要
自動車→道路は基本的に無料
特に地方の高速道路は無料であることも少なくない。ますます自動車に人が流れてしまう。
・路面電車の衰退
→路面電車は地下鉄やバスより低廉でバリアフリーな交通サービスだが、自動車の普及で衰退。老人、子ども、障がい者の交通権が侵害されている。
※近年では持続可能性の観点からエネルギー消費の少ない路面電車が再評価されているが、自動車に魂を売った我が国では路面電車をはじめ公共交通が急速に衰退している。しかも高齢化によって自動車運転のリスクも高まっている。日本でも公共交通の再評価をすべきだと考えられる。
大自動車時代に忖度なしでこうしたことを主張した著者の慧眼に、改めて驚かされる。
・誘発交通
→道路を拡幅しても、それに合わせて交通需要は増加するので渋滞は緩和されない。都市面積のほとんどが道路、駐車場となり、景観が悪化。
※『クルマを捨ててこそ地方は甦る』藤井聡 著においても同様の主張がなされていた。災害時や緊急車両の通行手段としての期待もあるが、長期的に見れば資本流出や財政悪化により地域は衰退する。
・日本の歩道は劣悪
→一方を建物、もう一方を道路に挟まれ、車道と歩道の間に並木等も少なく、歩車分離がなされていない。
歩行者信号の時間が短く、1回で渡りきれない場合がある。
歩道橋は交通弱者の権利を侵害している。
裏道にも車道が浸透し、子どもたちの遊ぶ場が奪われている。
※このブログで扱う徒歩旅においても実感する点。郊外の国道には歩道がないケースが多い。地方都市は特にひどく、青森駅や弘前駅は信号なしの車道を横断しないとバスターミナル間を移動できず、歩行者の安全が蔑ろにされている。
また、イオンなどの駐車場も店の前まで車が行き来し、歩行者との分離がされていないため非常に危険である。
・観光道路批判
→自然環境の破壊、けばけばしい名前(◯◯ラインなど?)をつけて利益追求の道具にしている。
※『道路整備事業の大罪』服部圭郎 著 でも東京湾アクアライン、本州四国連絡橋などの不採算性やストロー効果による人口減少・産業の衰退を厳しく批判していた。
・社会的費用の計測における問題点
→ホフマン方式(事故死せずに生きていたら得られた所得から生活費などを割り引きした額を、死亡事故による経済的損失とする。負傷の場合も同様に計算。)の問題点を指摘。
働く能力がない人が事故に遭っても損失はゼロになる。高所得者は被害額が大きくなり、低所得者や高齢者は小さくなってしまう。
これは人間の経済的側面だけを見ており、社会的・文化的側面を見落としていることを批判。
・東名/名神高速、東海道新幹線の比較
→延長キロ、投資額、輸送能力が概ね同じにも関わらず、高速は死傷者17000名、新幹線は0。高速道路の危険性を指摘。
3.おわりに
人口減少・高齢化・不景気を迎えた今の時代にこそ読むべき名著です。日本のテレビでは自動車のCMが多く流れることもあり、自動車メーカーに忖度しているのか知りませんが、道路整備事業やモータリゼーションを表立って批判する報道は少ないように思います。
しかし、本著にはそうした忖度が一切なく、当時便利で素晴らしいとされていた自動車の問題点を鋭く指摘した点に意義があります。
最近思うのが、ローカル線の維持や廃止における費用負担の問題への社会的責任。基本的に自治体がお金や人員を出せれば維持、出せなければ廃止になることが多いですが、果たして自治体だけに負担を押し付けるのは正義に適っているのか。
鉄道の衰退には様々な要因があるものの、モータリゼーションの浸透が大きなウェイトを占めているのは間違いないでしょう。
となると、公共交通衰退を加速させた自動車メーカー、部品の製造・販売を行う事業者、ガソリンスタンドにも損害賠償責任が生じるのではないか。
たしかに、自動車の普及によって移動の利便性は鉄道時代より格段に向上しました。乗り換えや経路に縛られず移動できるのはかなり便利です。
しかし、その一方で自動車や道路の普及によって、
・交通事故の増加
・地域資本の流出
・景観の悪化
・騒音などの各種環境問題の発生
といった損害を与えてきたのもまた事実です。こうした損害を賠償せずに利益の追求だけは許すのは社会的正義に反するのではないか。
しかも、子どもや高齢者など車の運転ができない者にとっては公共交通こそが生命線なのに、自動車の普及によってそれすら奪われる。
それを無視して利益だけを追求するのは不誠実極まりないようにも感じられます。
もちろん、政府や企業だけでなく、我々市民にも責任はあります。
自動車メーカーの甘言に乗せられて「便利な」自動車生活を謳歌した結果、至るところで「不便・不経済」が起きたにもかかわらず、自動車依存をやめることができない。
私の地元北海道ではクルマ社会の進行がひどく、近い距離ですら歩かずにクルマ移動する情けない人が大勢います。こうなってしまっては手遅れです。今のうちから対策を練る必要があると思います。
また、公共交通にも同じことが言えます。典型例が新幹線。便利で快適だからと依存し、開通によって失われる在来線や自然環境のことはろくに考えない。ただ経済効果、経済効果の大合唱でカネのことばかり。大井川の水を破壊してまで東京-大阪を1時間で移動する必要は果たしてあるのか?
北陸新幹線に北海道新幹線、西九州新幹線、リニア新幹線、奥羽・羽越新幹線、山陰新幹線、四国新幹線に果ては東九州新幹線。
まあ、全部作るつもりはないだろうし、これから人口はどんどん減っていくので、採算も取れずいくつかは諦めるでしょうが、果たして本当に必要なのか、よく考える必要があります。目先の利益に心を惑わされ、長期的なメリットを見逃さないよう、充分な注意が必要と言えます。
散々自動車を批判しましたが、私は自動車の功績も忘れてはいません。鉄道利権の解体です。
これは自動車に限った話ではありませんが、どの業界にも既得権益を頑なに守ろうとする「方々」はいます。鉄道が移動の主役で競合がなかった時代は消費者側に選択肢が多くありませんでした。その選択肢を広げた自動車業界には鉄道業界の既得権益を解体した功績もあるとは思います。
ただ問題はそれがあまりに急速かつ影響が大きかったことです。いくら功績があるとはいえ、弊害が生じているならその責任がないとは言えません。何らかの形で費用負担させる必要はあると考えます。
本書を読むことで、公共交通のあり方はもちろん、日本、ひいては世界の未来について考えるきっかけになれば良いと思います。
紹介は以上です。
ご精読ありがとうございました。
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