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お正月読み物「般若湯なんぞは飲まれない」

「色即是空」という言葉はあまりに広く知られている。

「ああやだな、昨日の嫌なできごとがあたまから離れない」
というようなことは誰にでもあるだろう。
そして、精神的な二日酔いの如き朝を迎えたりする。

しかし、起きた「こと」は、
もう「すでに過去のもの」になっている。
こういうことは、般若心経にもGlim spankyの歌詞にも
書いてある。過去のものに心を捉えられ続け、
未来に心を浮き足立たせるのが人生だとすれば、
人の一生とはなんとも寄る辺なき旅路である。

漢王朝で皇帝を侮辱したりすれば死は免れないだろうが、
文革の最中に孔子を称えれば、不興を買うどころではすまない。

なんだか、話が大袈裟だが、
すべて状況と事柄は密接に絡んでいて、
そのために「その」出来事が
起きるわけだ。

何かの本で読んだが、
たとえば「週刊ポスト」ひとつとっても、
第何号と印刷された発行日と日時まで指定しても、
その日に発行された「この」週刊ポストと指をささなければ、
結局は、「その」存在を捉えることはできない、のだという。

存在とは、そういう諸原因と諸条件にささえられて、
存在しているものであり、
それを、難しく「色即是空」なんて言うわけである。

さて、そんな流れていく雲や水のように捉え所のない
日常を生きていくということは、汚れては洗い、洗っては汚れ
を繰り返す水仕事のようなことなのかもしれない。
だから禅の僧侶を「雲水」と呼ぶし
彼らは「一掃除二信心」をかかげるのだろうか。
修行の中に真実があり、真実とはそれを知るプロセスなのか。
汚れれば洗い流すが、「どこから汚れが来たか」などとは拘泥しない。
洗い流すけれども洗った水の行方にはとらわれない。

「現象しない本質はない」というのはG・W・ヘーゲルの哲学だが、
『般若心経』と、とても共通項を感じる。

「われわれとしては実体がないところの渾沌とした主客未分の
世界を(中略)実感の上で掴まなければならない。しかし、そのためには、
現象にまず眼を向け、仮に、これを頼りとし手掛かりとして行かねばならない。」

ワイド版岩波文庫『般若心経 金剛般若経』中村元 紀野義一 訳注  
岩波書店 より。

これが曲者なのである。「現象」=「ああ昨日は嫌だったなあ」を「仮に」頼りにしなければ「本質」=「しかし、それはもうどこにもない事柄なのだ(実体がない)」には至れない。汚れを見なければ、汚れという「存在」
を感覚することは不可能なのだ。
ヘーゲル的に言えば「媒介」(なかだち、間にはさまっているもの)
を通してしか、世界は感覚できない。そして、世界は「媒介」を通じてしか、
表出してこない。

しかしここまで書いた理屈を総体として把握できたならば、
観自在菩薩の爪の垢より効き目は劣るにせよ、
とりあえず翌朝の心は二日酔いではなさそうだ。







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