#8-2 やっと、諦める、明らめる。《冷却期間・5月後編》
↑前回投稿
いよいよ核心に迫ってきて、
変わるための準備が始まった。
「私が私を幸せにする」
「いなくても生きていけるけれど、
いたらもっと楽しい」
「自分の感情をタイミングよく&うまく表現する」
という私らしい望みを大切にしていくべく
変わりたいと決意したあと、
そのために何を変えるべきか
について整理していきたいと思う✏️
✳︎このnoteは、大好きな彼に別れを告げるしかなかったことに後悔した女子大生が、気持ちの整理がついたこのタイミングで振り返りをするnoteです!
1人の人間の恋愛訓を読むような気持ちで読んでいただけるのがベストと思いまーす🙌
自分の中へ深く潜る、5月
ずっと「重くなりたくない」と思っていたのが、かえって重さを生んでいたことに気づいた私。
しかしそれでも、このストッパーはなかなか外れなかった。
まだまだ自分の気持ちに正直になることに抵抗を覚えていたのだ。
ちなみに余談だが…
ありのままの私の行方
まず、私のポリシーについてお話ししておきます。それは、
「ありのままの自分はまず自分が愛そう」
という風に考えていること。
上の記事は、私が大学生向け掲示板プラットフォーム「Dtto」に綴っていた頃に初めてたくさんの共感をいただいたものです。
これが、私の礎になっています。
ありのままの自分を愛してもらいたくて
路頭に迷うくらいなら、
まずは自分で愛でる。
愛情を自給自足できる力がついて初めて、
誰かのことも愛することができる
のではないか。
そんな風に考えていたのですが、
今回の交際ではこれについて
もう一度向き合うことになったんです。
それはなぜなら、ありのままの自分が
必ずしも肯定的な側面ばかりとは限らないことに気づき始めたから。
自分でも好きになりきれなかったり、
愛したいのに愛せない部分があったりすることに気づいたから。
(これとどう向き合うかについては↓で考えてみています)
なので、
「ありのままの自分は誰にも愛させない‼️」というスローガンがいつのまにか、
ストレスに晒され自信を喪失し
フラットな思考からかけ離れていく中で、
「ありのままの自分なんて
誰からも愛されるはずがない」
みたいなとんでもないすり替わりが行われていました。だから、欲が出てしまった。
ありのままの私でいたい。
ありのままの私を、彼には愛してほしい。
そう思った結果が
涙ながらに電話するという行動に
現れてしまった気がしています。
素直になれなかったツケが回ってきた。
馬鹿だったなあと思います。😌
なので当時の私は
彼の前でありのままでいようとし、
そしてそれでうまくいかなかった、
だから別れるしかなかったのだ
と考えていました。
(というか、半ば言い聞かせていた。
そう考えないと、隣に彼がいないという現実を飲み込むことができなかった。)
けれど、
「ならば次は、ありのままの私を受け入れて愛してくれる人を探せばいい‼️」
とはならず。
それはなんだか、安直過ぎて違う気がしました。
それって他力本願すぎない?
運ゲーだよね、なんか。
路頭に迷うし、もったいないよ。
人生一回きりなのに。
運命の人探しで振り回されるの、
私は御免だよ?
恋愛体質は私には向いていませんし、
これから色んなことを学んでいきたいと思っているところです。なので、
恋愛や男女の情事で自分の世界を染め切るつもりは、更々なかった。
メスではなく人間であり続けたかった。
(もちろん、メスの私が嫌いという意味ではない。むしろ結構気に入っている。)
けれど、
ありのままの自分のことは、
やはりずっと秘密の部屋の中で、
ひとりこっそり愛でることしか
許されないのだろうか。
そんな葛藤を抱いていた時、
川代咲生氏のエッセイに出会いました。
ありのままと素直
この一説に衝撃を受けました。
私のいう「ありのまま」は、
川代氏のいう「素」を指しており、
素であるということと
素直であるということは
違う。
そう彼女は言うのです。
この感覚も、川代氏と私は似ていました。
「ありのまま」というのは自己の中で留めておくのが安全な言葉だと私も思います。
ありのままの自分というのは、
生身の自己であり、
ある意味とても繊細で傷つきやすくもある。
そんなわけで私は、川代氏のアイデアを取り入れていくことにしました。
ありのままの自分を認めるということ。
そして、ありのままを愛するというのはそう簡単なことでないということ。
けれど、素直な自分でいることはできるということ。
私は、そんな階層構造に気づくことになりました。
当時の私は、
彼の前での私には
「ありのままの私」と「背伸びした私」
の2択しかないと思い込んでおり、
そんな2つをブレンドした「素直な自分」という存在に気づいていなかったようです。
自分の気持ち・本音を
蔑ろにすることなく、
自分にとっても相手にとっても
気持ちの良い「私」でいることは
可能なのかもしれない。
ついにアサーションの存在に気づき始めました。
ご機嫌でいるため「距離感」
また当時、
自分で自分の機嫌を取ることに嫌気がさしていたことについても、
同時並行で深掘りしていました。
結論としては、自分のために自分の機嫌を取ることが大切なのであり、
彼のために取ろうとしていたからややこしいことになっていたのだと。
当時の私にとって、距離を置くというのは別れる前の最終手段のようなものであり、
その先には別れしか待ち受けていない、
だったらもう別れてしまうしかないだろう。
そんな思考回路を持っていました。
けれど、色々深掘りして調べていく中で
どうもそうとは限らないらしいということがわかってきました。
とくに、私にとってバイブル的存在のエッセイには、葛藤していた当時も涙したようです。
そうか。距離は置いてよかったんだ。
あの頃は、距離を置きたいのに
置いたら別れを示唆してしまいそうで、
そのまま別れてしまいそうで怖かった。
けれど、自分がご機嫌であるために距離感を測るのは、相手を試すわけでも別れを示唆するわけでもない。
心のゆとりを持つための、
自分のためにご機嫌でいるための手段
だったのです。
(別れる前に気づいてたかったーーー😓)
しかし。
…なんか違う。
距離を置けばよかったのかー!ではスッキリしない何かがあると、そう感じました。
私の本音はどこだ。
…
もしかして、
「会えなくて寂しいな」
「会いたいな」
だったんじゃないのか…?
私が当時、本当に言いたかったことはおそらくこれ。
それを見つけた一方で、
まだ「重くなりたくない」ストッパーは
かかったままでした。
「会いたい」も「寂しい」も当時の私の中では「重いワード認定」を受けていたので😓
本音を見つけても、
そんな自分を重いと認めたくない自分がいる。
自己受容の壁にぶち当たりました。
新しい解釈、そして涙。
けれど、前回の投稿(の「気持ちを伝えるということ」)でも書きましたが、
試したり重いと感じるのには
そこに負荷が存在するからであり。
冷静になって考えた時、私なら
「会えなくて寂しい。会いたいな。」
と好きな人に言われれば嬉しくなるよな、と。
「重いワード認定」にも偏向があるように私は感じました。
そんな時、とあるサイトが私に新しい解釈を教えてくれました。
ちゃんと数えてたわけじゃないし、
別れて時間が経ってるので、
過去の解釈が変わっている可能性もあります。
けれど、
私よりも彼の方が「会いたい」と言ってくれていた数は多かった気がする。
その度に、私は嬉しくなっていたから。
「会いたいな」
くらい
言えばよかったな。
そうやって持ちつ持たれつでいればよかった、と。
それが「ふたりなりの納得いく関係」ってやつだったのかも、と。
これに気づいた時、思わず涙が出たのを覚えています。
しつこかったり遠回しだったり、
急だったり機嫌を損ねたりして
負荷を生じさせるから重くなってしまうのであって、そうでないなら
「会いたい」「話せなくて寂しい」は
立派な愛情表現の一つなんだと。
「重くなりたくない」の意識が強過ぎて、
大事なことを見落としていたことに、やっと気づくことになりました。
会いたいな。
寂しかった。
会いたかったよ。
こんな一言たちについて、ものすごい誤解をしていたことがわかりました。
もう一度
誰かを愛するチャンスを得た時には、
こんな素直な気持ちを伝えられる
自分でありたい。
もう自己嫌悪から抜け出せなくなって、
強引に別れを告げるようなことはしたくない。
これ以上、好きなまま別れる人の数を
増やしたくない。
「一緒にいる術」に無知であるがために
別れるしかないという、
そんな消去法はもうしたくない。
方向は定まった。
ありのままの自分との向き合い方も、
「重くなりたい」という本心との向き合い方も、
掘り下げていくうちに同じゴールに辿り着くことになりました。
素直でありたい。
自分の本音を蔑ろにしたくない。
相手のことも考えて
伝えられるようになりたい。
ありのままの自分のことをちゃんと
受け止められるようになりたい。
自分のためにご機嫌であれる自分でいたい。
こうして私は、
素直であるためにできること、
素直な伝え方、素直な捉え方を
学んで自分のものにすべく、
アサーションを学び始めます。
次回、《5月・アサーション編》!
magazineから全部読めます🙌