noterさんにぜひお贈りしたい二つの言葉 『ある生涯の七つの場所2』100の短編が 織り成す人生絵巻/夏の海の色 第三回
連作短編『ある生涯の七つの場所2/夏の海の色』第三回。これで『夏の海の色』は完結です。
上記は「黄いろい場所からの挿話」のラストで、アメリカへ留学する恋人エマニュエルとの別れを決めていた「私」が、考えを翻す場面です。
それは、やはり、いつかくるはずの、より完成された形までの、準備にすぎなかった。
お読みくださるみなさんにお贈りしたいのがまずこの言葉です。今自分がやっていることは、いつか手に入れるであろう成功や幸福の準備にすぎないのだ、そんなふうに考えてはいないでしょうか?
1.「黄いろい場所からの挿話」エマニュエルと「私」
『ある生涯の七つの場所』については以下をご覧ください。
ここで再度エマニュエルと「私」の関係をおさらいすると、
「私」は通信社の支局長から、日本の本社に正社員の席があるという確約を貰っています。それは日本でのステータスを得ることであり、エマニュエルが留学を終えて日本にやってきた際の、二人の生活の基盤となるものでした。これはごく一般的な、常識的な考え方で、誰もが自分の地位を守ろうとするでしょう。
①XIII.「吹雪」
これまで「黄いろい場所からの挿話」では常にスペイン内戦が下敷にありましたが、最後の2回はその影が消えており、エマニュエルと「私」の別れに重点が置かれています。
XIII.「吹雪」では、やがて訪れる別れについて話しながら、互いに何事も深刻に考える必要はない、という結論に達します。その過程で出会うのが、「私」の友人で舞台演出家の瀬木責と、瀬木と10年行動を共にしているプロデューサーのルネ・ブロックです。
ルネには別れた妻と娘とのあいだに秘密があり、「私」は偶然その秘密に立ち会うことになるのですが、ルネは自分が自由であることが重要だと言い、「私」は瀬木に、(家族との関係も)深刻に考えることはないんだな、と言います。
そして、新たな公演のために街を離れる瀬木たちを見送ろうと、クリスマス休暇で過ごしているチロルの村から街へ出ようとする「私」とエマニュエルの乗った列車が、吹雪で動けなくなってしまいます。
「私」が、瀬木の見送りができなくなったことも深刻に考えてはいけないんだな、と言うとエマニュエルは、こんな吹雪って滅多に見られないから(楽しまなくちゃ)と答えます。「私」は、
そして僕がnoterさんにお贈りしたい二つ目の言葉がこちらです。
でも、いま一番いけないことは人生で深刻になることだわ。そうなったら、人生なんて楽しめないんじゃない?
こうして「別れの予行演習」をしながら、ついに二人はその日を迎えるのです。
②XIV.「ル・アーヴル 午後五時三十分」
「私」は通信社で正社員になることを求められているとエマニュエルに話します。
そんな会話をしながらエマニュエルと過ごす最後の一週間、「私」はエマニュエルの友人で働いたものを全部恋人に貢いでしまうエレーヌや、ホテルで掃除婦をしながら自分を棄てた男を15年待ち続けたというマルトに出会います。
「私」はル・アーブルまでエマニュエルを見送りにゆき、船が出航する直前まで別れるつもりでいるのですが、突然エレーヌやマルトのことを思い出し、自分が世間体に縛られていたことに気づくのです。
③まずここで僕がおもうこと
「私」が最後にどうするのか、それはもし機会があればみなさんご自身で本作にあたってみてください。
エマニュエルは、考えようによっては自分のことだけに専念し、それを最優先するわがままな女性です。そして「私」は、そんな女性に振り回されながら自分の意志を通すことのできない、優柔不断な男です。けれど、そんな二人の生き様が、僕には爽やかなものにおもえるのです。
結婚もしない二人は、やがてどこかで別れてしまうかもしれません。そうなったとき、悲惨なのは「私」でしょう。それでも「私」は、深刻になってはいけないんだな、と考えるのではないでしょうか? 今はそんな気がします。
2.「赤い場所からの挿話XIII・XIV」
設定は戦前の日本です。「私」は高校受験を控えた中学三年生です。「私」の父はある役所の官吏でアメリカに出張しており、母は結核で湘南のサナトリウムに入院していましたが、今は退院して「私」と二人で住んでいます。
他に、母の弟のひとりで作家の叔父や、前の回に出てきた友人たちも何人か登場します。
①XIII.「月の舞い」
両親が近くにいなかったことで「私」は長く親戚の家をたらい回しにされていましたが、母が退院したため、二人で暮らすことができるようになりました。しかし、アメリカにいる父が突然辞職してしまい困っていたところ、遠縁の、一族の中では成功者の桜田房之助が持っている、湘南の別荘の離れを借りられることになります。房之助は故人でしたが、その妻の八重からの、ぜひにという話でした。
けれど、やっと住むところが見つかったと思う間もなく、八重が急死してしまいます。二人はまた、住まい探しをしなくてはならなくなったのです。
ここでは、「黄いろい場所からの挿話XIII.吹雪」に通ずる<深刻にならないこと>というのがテーマになっているようにおもいます。「月の舞い」というのは、その別荘で一度だけ、誰も見ていない真夜中に八重が舞を舞ったということですが、それは本筋ではない気がします。父の勝手な辞職も、住む家がなくなったことも、「私」は、悲観することはないと言うのでした。
②XIV.「雷鳴の聞える午後」
続くXIV.「雷鳴の聞える午後」では、父の退職金で家を買い、やっと落ち着くことができるようになります。登場するのは楠木伊根子という女性で、アカ(社会主義)を疑われた南部という教授と作家の叔父とのあいだで何かあったようなのですが、そこは最後まで明かされません。それより「私」は、
ということになります。この部分は、「黄い場所XIV.ル・アーヴル 午後五時三十分」に繋がるようにおもいます。
3.深刻に考えないこと
エマニュエルはどんなときでも楽観的です。それは本心ではないかもしれません。しかしそんなエマニュエルに合わせるように、「私」も哲学的な楽観論を披瀝してみせるのです。二人は大雪の中でこんな会話をします。
「赤い場所からの挿話」では、父が仕事をやめたことを悲観し、加えて「私」の学費が大変になることを理由に母が働きに出るというのを押しとどめ、「私」は言います。
僕も、会社をやめて独立するときは深刻には考えていませんでした。深く考えても仕方がない、そうおもっていたのです。何とかなったかと言えばそうも言えないけれど、ここぞというとき深刻にならないことは、きっとありだとおもうのです。
「根拠のない自信」
あるいは、
「なんとかなるさ」
ときにはそうおもうこともあっていいと僕はおもうのですが、いかがでしょうか?
『ある生涯の七つの場所2 夏の海の色』はこれでおしまいです。
【今回のことば】
『ある生涯の七つの場所2 夏の海の色』
・中公文庫 1992年