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『詩』ある人生

昼下がり
東の窓辺に向かう机で本を読んでいると
懐かしいものたちが こっそりと
窓の向こうにやってくる
男は本に没頭していて そんなとき
バッキンガム宮殿の大広間であったり
紫宸殿の庭先であったり
教王護国寺の回廊であったり あるいは
貧しい農家の牛小屋であったり
他にも山の上から都会の四辻よつつじまで
あらゆる場所で
男は立ったり座ったり
ときには横になったりして
目の前で繰り広げられる人間模様を
じかに 芝居のなかに入り込んで眺めていた
だから
ふと頭を上げたとき ぼんやりと
靄のようなフロストガラスのその向こうで
ゆらゆらと佇んでいるものたちが
てっきりそれだとおもったのも
あながち間違いではなかったのだ


けれど 窓の向こうに佇んでいたのは
小説の登場人物などではなく
どこか世界の場所でもなく
男には別の意味で
そのものたちに覚えがあった それは
たったひとり いや
たったひとつの場所でもなく
たった一日のことでもなく
見知った知り合いのだれかれでもなく
遠い日に別れたあの人でもなく
もちろん 男自身でもない


それでも男には覚えがあって 何かこう
胸が締め付けられるような
切ないおもいにかられたのだ
それは 今日まで自分が過ぎてきた
何十年という時間の影
それがあたかも影絵のように 窓の向こうで
入れ替わり立ち替わり ゆらゆらと
揺らいでいるのではなかったか?


昼間は手元を明るくしてくれる 柔らかな
そんな窓辺だけが欲しかったので
靄のようなフロストガラスが
そこには嵌め殺しになっていて
開いてみることはできなかった
男にできたのは 立ち上がって
ガラスに両手をあててみること すると靄のような
曇ったガラス窓の向こうで ものたちが
喜び騒ぐように笑うのがわかった
腕を伸ばし ガラスに両手をあてたまま
男はじっと眼をこらしてみた けれどはっきりと
それと認めることはできなかったのだが


そのとき
どこか遠い 遠いところで
男が知らない寺の鐘がときを告げた 長く長く尾を引くように
貼り付いた手のひらを剥がすように
男は両手を引いて座り直す
どこやらから風が入り込んできて 二、三枚
本のページをめくって過ぎる
気づけばガラス窓はただちらちらと
薄曇りの空のように ゆらゆら光っているばかり
ため息をつき 背もたれに背をもたせかけて
男はフロストガラスの窓を見つめた
何もいなくなった向こうを透かすように


その瞬間 男ははっきりと悟ったのだ
長かった 自分の何十年かが
今終焉を迎えたのを まるで
赤い木の実がひとつ
真っ直ぐに筋を引いて
地面に向かって静かに落ちていったように


男はゆっくりと立ち上がる
今日までの自分に
ひとつ休符を打つように そして
フロストガラスの光が落ちる 柔らかく
男が閉じた本の表紙に





16日は敬老の日でしたね。そこで、こんな詩ができました。一度それまでの何かを終えてまた新たに始める、これからはそんなことも増えてくる世の中になるのでしょうね、今よりももっと。でも第二の人生などという言い方は好きではありません。自分の人生は自分のものであって、ずっと続いていく以上、第一も第二もありません。何をやるかが変わるだけで、そこにいるのは自分です。僕はそうおもいます。第二の人生などと言うなら、学生時代は人生ではなかったことになります。そうはおもいませんか?

*フロストガラスは、磨りガラスより肌理きめの細かい、半透明のガラスのことです。
*教王護国寺は、京都の東寺のことです。京都駅からも見える、京都で一番大きな五重塔を持った、あのお寺です。




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