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『天草の雅歌』恋愛小説、経済小説、極上のエンターテインメント!

発行年/1971年
辻邦生さんの二作目の歴史小説は、江戸初期の長崎を舞台にしたミステリー仕立てのエンターテインメントです。小説は何通りもの読み方ができるのがよい、と言ったのが誰だったかは忘れたけれど、『天草の雅歌』は恋愛小説であり経済小説でありそして、詳細な史料研究に基づいた、優れた歴史小説として楽しむことができます。

本作とは関係ないけれど、何通りもの読み方ができるという意味で言うと例えばトーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』や、トルストイの『戦争と平和』などがそうでしょう。(どうでもいい話ですが、『戦争と平和』は長い間手がつけられずにいました。昨年からやっと読み始めたものの、あれは他の本と並行して読むべきではありませんね。半年経ってやっと3/4終わったところです(汗)。)



1.『天草の雅歌』の面白さ

上にも書いたように、『天草の雅歌』は幾通りにも読むことができる作品です。その点について考察したいとおもいます。

①恋愛小説として/通辞、上田与志とコルネリアの悲劇

まずタイトルの「雅歌」ですが、ラテン語でCanticum Canticorumと言い、<歌の中の歌>という意味だそうです。旧約聖書の『諸書』に含まれており、男女の愛を歌ったものとも言われています。辻さんは次の雅歌の一節を、この作品のエピグラフにされました。その意味は最後に明かされます。

わが愛する者の声きこゆ、よ、山をとび、岡をおどりこえてきたる。

『天草の雅歌』 新潮文庫より

上田与志よしというのは本作の主人公で、通辞(通訳)として長崎奉行所に赴任した役人です。もうひとりの主人公、コルネリアは本名を伊丹ふくと言い、母がポルトガル人で天川マカオで亡くなっていて、父は上田与志とも関係のある朱印船交易商人の伊丹市蔵です。辻邦生さんがエピグラフに上記の一節を記したことからも、二人の恋愛がまず本作のテーマだということがわかります。そしてコルネリアをハーフにしたことで、当時の時代情勢を知る人が読めば自ずと先の悲劇が見えてくる、そんな仕掛けになっているのです。

②経済小説として/糸割符商人と朱印船交易商人との軋轢

物語の時代は江戸初期の寛永年間(1624年〜)です。
江戸に幕府が開かれたとはいえ、長く続いた戦乱の影響で、当時は幕府にもまだそこまでの財力はありませんでした。そこで頼ったのが商人たちです。中でも白糸(生糸)を始めとするポルトガル交易はポルトガルからの嘆願もあり、幕府はここからの利鞘を得て財政にあてようと考えました。そこで特定の商人に専売権を与え、彼らの合議制で買値を決められるようにしたのが糸割符いとわっぷ制度>です。

これに対し秀吉の頃から続いている、幕府から朱印状(交易許可証)を得て自ら船を仕立て、海外へ出てゆくのが朱印船交易です。糸割符商人ももともと幕府から御朱印を受けて渡航する交易商でしたが、日本にやってくるポルトガル船の白糸を、幕府の庇護を得て独善的に買値をつけることができるようになりました。しかし朱印船の交易商は自身の裁量で価格を決めることができるため、そうした商人が増えると白糸の価格を抑え込むことができません。国内にいて向こうから外国商人がやってくるのを待つ糸割符商人たちとのあいだに、当然ながら軋轢が生まれていったのです。

さらに朝鮮やオランダといった国々も、日本との交易を望むようになります。

本作では、糸割符商人の堺屋利左衛門が利権を手中に収めようと暗躍することによって、後発の朱印船交易商の伊丹家が徐々に力を削がれてゆく様子が描かれます。加えて関ヶ原で敗北し、外様となった薩摩が財力を蓄えようと朝鮮とのあいだで密貿易を行います。そのことも、伊丹家を追いやってゆく要因になるのです。

③歴史小説として/史実と実在の人物たち

上田与志が通辞として長崎に派遣されたのは、徳川家光が三代将軍となった1623(元和9)年です。史実ではその前年、のちに元和げんなの大殉教>と呼ばれるキリシタン宗徒55人の大虐殺が長崎でありました。また、本作に登場する長崎奉行、長谷川権六(藤正)、水野守信、竹中采女うねめ(重義)、代官・初代末次平蔵(政直)などはいずれも実在の人物です。
さらに東インド会社の台湾長官ピーテル・ヌイツ、通訳のカロンといったオランダ人も史実に登場します。

全く同時代・同じテーマを扱った作品に、飯嶋和一氏の『黄金旅風』があります。『黄金旅風』は寛永5年からの8年間を扱ったもので、上記の長谷川権六は既に奉行を解任されたあとで登場しませんが、それ以外の人物は揃って出てきます。(『天草の雅歌』では、長谷川権六は解任されたのち重要なキーマンとして動くことになります。それは史実にはありませんが、エンターテインメントとしてある程度力のある人物が必要だったのでしょう。)
中でも奉行竹中采女は、江戸表には極秘裏に自ら朱印船を建造して交易を行う一方、隠れ蓑にするためにキリシタンの大弾圧を行うといった人物でした。
『黄金旅風』では、初代末次平蔵はカピタン平蔵と呼ばれ、実際に活躍するのはその息子、二代平蔵です。

『天草の雅歌』でも、竹中采女のキリシタン弾圧は上田与志やコルネリア、そして伊丹市蔵らに暗い影を落としますが、それよりむしろ長崎貿易を大きなテーマとしたのには、辻邦生さんなりのある考えがあったからだとおもいます。

④エンターテインメントとして/幾つもの事件と、同僚小曽根乙兵衛の働き

上田与志の周辺では、伊丹船の放火とか唐人(朝鮮人)船長殺害とか、次々に不可解な事件が起こります。それらの事件がキリシタン絡みなのか、それとももっと他に何かあるのか、さらに首謀者は誰なのか?
物語は二部に分かれていて、一部では事件の内実はほとんど明かされません。

そうした事件の裏側にめっぽう詳しいのが、与志の同僚で年上の通辞、小曽根乙兵衛です。乙兵衛は最初から、本作で狂言回しの役を担わされていました。与志と変わらぬ一介の通辞に過ぎない小曽根乙兵衛が一体どこから情報を得てくるのか、その疑問は最後のほうで衝撃的な事件とともに種明かしされますが、そんなところがエンターテインメントたる所以です。

そんな小曽根乙兵衛が、長崎での自分たちの立ち位置について与志に語った言葉があります。これなどはまさに乙兵衛がどういった目を持っているのか、それがよくわかる台詞だとおもいます。

私は、おぬしが伊丹の娘に好意を持とうが持つまいが(いや、打消さなくてもいい)、ただあの娘が普通の娘のように単純に生きているのではないということだけを知っておいて貰いたいのだ。まさか、伊丹の娘だって、おぬしを利用してかかるとは、私も信じない。だが、おぬしもすでに自分の生涯の務めを定めた人間だ。それに背馳するようなことがあってはならぬし、かねておぬしが言っていたように、幕府の人間として立身しなければならぬ。それは、この私も同様だ。とすれば、幕府につらなる人間としての掟なり、規律なりに従わなければならぬのは、理の当然だ。前にも言ったように、長崎では、すべてが複雑だ。一人一人が二重にも三重にも敵対者をもっている。すでに、おぬしも経験したように、いつどこで、私らが襲われるともかぎらない。相手の性格も二重、三重にできている。伊丹の娘だってそうだ。それが長崎なのだ。それが何らかの力と力の間に置かれた人間の姿なのだ。いつか私らもそうなってゆく。自分では気がつかぬうちにそうなってゆく。だが、それが人間の生かもしれぬ。いまさら嘆いてもはじまらぬ。

『天草の雅歌』 新潮文庫/第一部 10秋の巻 より

①〜④でおわかりのように、鎖国を前にした大転換期の長崎を舞台に、しっかりとした史実を下敷にしながら、悲劇へと向かう恋愛を絡めつつ架空の人物が謎を紐解いてゆく、それがこの『天草の雅歌』という作品なのです。


2.辻邦生さんが書きたかったこととは

辻邦生さんがこの作品を書いたのは、1968年から70年にかけてです。1957年から61年までパリに留学されていた辻さんは、外から日本を眺めるという経験をされることで、戦後十数年を経たその当時でもまだ、日本の中に残る鎖国意識といったものを感じられたのではないでしょうか? 最後に近い場面で、辻さんは長谷川権六に次のように語らせています。

いま松平信綱殿をはじめ家光公側近の才人たちは、国内の大名小名の統制に頭をなやましている。到底、異国のことを考えるのはむりかもしれない。だからといって、そうした幕閣の方針に迎合して、国内に居すわって交易するだけで利益を追っていたら、最後には、自分自身の首をしめることになる。日本は異国のあいだに立って孤立してしまい、天竺やエウロッパや安南やジャガタラと共に生きてゆくことができなくなってしまう。そうなれば、私たちは世界のなかで物を考えたり感じたりできなくなってしまう。よかれ悪しかれ日本のことだけしかわからなくなり、盲目となり、井の中の蛙となり、傲慢になり、無知になる。私はそのことをおそれる。

『天草の雅歌』 新潮文庫/第二部 11雲の巻 より

長谷川権六という人物は先にも書いた通り、史実に現れる実在の人物でありながら、長崎奉行解任以降は史実に関係なく自由に動き回っています。その権六に最後にこう語らせたということに、僕は意味を考えないではいられません。

このことは『天草の雅歌』を読む中で僕が感じたことですが、それとは別に辻邦生さん自身は、1976年に刊行されたエッセイ集『霧の廃墟から』の中に収められた「ユリアヌスの廃墟から」という一文で、本作を含む、その前後に同時に書いた作品について以下のように語っておられます。

ちょうど帰国した1961年から1967年までの6、7年は、ギリシア体験を定着すること、そこから次への展望を開くこととに、全力を集中していたように記憶する。1966年の『夏の砦』と1968年の『小説への序章』は、この時期の探究の方向をよく示しているような気がする。
私が1968年に『安土往還紀』と『天草の雅歌』を書きはじめたのは、いわばこうした探究が具体的な形をとって、一応客観化されたからであろう。
私は、直接自分に課された問題を、外側に出て、時代とか、別個の条件とかのなかで、描いてゆく可能性をつかめたような気がしたのだった。

『霧の廃墟から』 新潮社版/Ⅵ 作品から「ユリアヌスの廃墟から」 より

ここに書かれているギリシア体験については、以下で取り上げています。

そこで辻邦生さんは「小説を書くこと」の意義を見出しました。本作を書いたのは、ギリシャ旅行で得た啓示を具体的な形にするという、その一連の作品のひとつだったということです。ただそうやって書かれた作品群の中でも、本作とのちに続く『背教者ユリアヌス』については、<物語る>ということをより強く意識した作品だと、僕はそのようにおもうのです。


なおタイトルの『天草の雅歌』ですが、寛永14年に起こった島原の乱と合わせて、この地方一体を天草と考えられたのかもしれませんが、そのあたりのことはよくわかりません。




【今回のことば】

私は他の誰でもなく、まさしく私という人間です。そしてそのことはどうにも動かすことはできません。それとまったく同じように、男と女の出会いにも、どうしようもない、そうした定めというものがあるように思えるのです。私はオランダの書物でこうした考えを読んだことがありますが、それは私の実感でもあるのです。私が私であるように、私の妻はあなたなのです。

『天草の雅歌』 新潮文庫/第二部 7風の巻 より




『天草の雅歌』
・辻邦生作品全六巻〈4〉 1973年

・*天草の雅歌 (新潮文庫 草 68F) 1976年

・天草の雅歌 (辻邦生歴史小説集成 第2巻) 1992年


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