巨匠と名匠 秋山和慶/シティフィルの「法悦の詩」
オペラシティでシティフィル定期を聴いてきた。
リャードフ:交響詩「キキーモラ」作品63
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第2番
《アンコール》
シュニトケ:ア・パガニーニから抜粋
スクリャービン:交響曲第4番 作品54「法悦の詩」
指揮:秋山和慶
ヴァイオリン:周防亮介
感想の前に愚痴を…
念願の初・秋山和慶!😆
これで、今年の目標だった「小泉・外山・秋山を初聴きする」を達成!🙌
去年飯守泰次郎を初聴きしたので、未聴だった日本のベテラン系を一通り聴けたことになる。
やはり「一度でも実演に接した」という経験はそのアーティストを語るうえでアドバンテージになるのですよ。
録音だけでああだこうだ言われてもね?😏
チェリビダッケなんて録音拒否してた音楽家ってことが忘れられてCDが評論の俎上にのってるけど、生演奏を聴いた人でないと真価はわからないと私は思っている。
今日は前半と後半を違う席で聴いた。
というのもお気に入りのステージサイドで聴いていたら、ロックを聴くがごとく首を振ったり身体を揺すったり縦ノリで聞いてるおっさんがそばにいたので、休憩時間にホールの人に言ったら席を変えてくれたのだ。
お客の入りは5割くらい。1階席なんてガラガラだった。
後半は3階のセンターで聴いた。
それで思ったのは、バルコニー席がだんだん苦手になってるということ。
手すりが邪魔なのだ!
なぜこんな位置につけたの??と毎回思ってしまう。
ちょうどステージを見る視界の中央に手すりが来る。
向正面の客なんかしっかり見えたって仕方ないんだから、ステージをしっかり見える作りにしてよ!
どうせ手すりを高くするとすき間から子供が落ちるという意見があったんだろうけど、ミューザ川崎の3階席は視界に手すりが被さらなかったぞ。
あまりに無神経な設計にイライラしてしまう。
何で手すりのすき間から秋山さんと周防さん覗かないといけないの?😓
久しぶりにセンターで聴いて、高関健のシティフィル首席指揮者就任披露演奏会の「わが祖国」を3階センター1列目で聴いたのを思い出した。
演奏の素晴らしさもあり第6楽章で泣いてしまったが、見晴らしのよさも一因だなと思った。
指揮者の顔が見えた方が人間ドラマを見てるようでブログは書きやすいのだが、いかんせんオペラシティの手すりは最近鑑賞の妨げに感じてきた。
縦ノリで聞いてる客に関して言えば、そんなにノリノリで聞きたいなら自宅で聞けよと思いますね👊
クラオタっぽい雰囲気あったけど、コンサート会場で縦ノリしてるって相当イタイおっさん。
こちらは舞台に集中したいのに、てめーの動きのせいで興醒めなんだよ!😓
いい加減にしてくれ!😓
ホールの人に救われました。
最近は我慢しないで、前半で気になる客がいたらホールの人に言うようにしてるが、マナーの悪い客に遭遇する率が高い!
移った先でも鼻啜ってる人がいたし。
芸術と相対するって、鏡のように己の姿も見つめ直す行為だと思うんですよね。
そんないい加減な態度で聞いててよく熱狂的に拍手できるよな、と思うわけです。
芸術に対峙するときの自分の姿勢は常に意識していたい。
芸術鑑賞において、マナーよりも大切な概念かと思います。
感想
感想が遅くなってしまったが、今日は印象の薄い演奏会だった。
前半気が散る要素が多かったというのもあるが、秋山和慶も周防亮介も突き抜けた凄さを感じなかった。
曲に馴染みがないせいで演奏家の真価が分かりづらいというのはあるが、周防さんのアンコールのシュニトケですら自分にはあまり刺さらなかったので(気迫と集中力は凄かったけど)、相性が今ひとつなのかも。
秋山さんは「手堅くまとめる」名匠という印象そのままだった。
リャードフの小品では好ましく感じた無駄のないバトン・テクニックだが、「法悦の詩」も破綻なくまとまってる感があったので、これはもっと破綻していてもいい音楽なのでは?と感じてしまった。
言わば「決して矩を踰えない」演奏スタイルが私には音楽のスケールを抑制しているように感じられた。
もっともオペラシティで「はみ出した法悦の詩」をやろうとすると銭湯みたいな音のカオスになりかねないが、私はまとまってる芸術より逸脱している芸術の方が好みなので、そういうのでもよかった。
聴衆の拍手は大きく、半分の入りとは思えないほど熱い拍手だった。
おそらく秋山和慶の「法悦の詩」はふだん聴き漏らしがちな部分も丁寧に描いていて、力任せに押すスタイルではなかったから、じっくり味わいたい人には満足の出来だったのかもしれないが、秋山和慶の良さは私にはよくわからなかった。
今度はよく共演しているオケで、ベートーヴェンやブラームスなど王道曲を聴いてみたい。
巨匠と名匠
さて、以前から気になっていることだが、指揮者には「巨匠」と呼ばれるタイプと「名匠」と呼ばれるタイプがいる。
秋山和慶なんか典型的な後者だと思うし、「巨匠」と謳ったチラシを見たことがない。
小泉和裕、飯守泰次郎も似たようなタイプだと思う(勝手に『日本の名匠三羽烏』と呼んでいる)。
では、ハマチがブリに出世するように、名匠が巨匠に化けることはあるのだろうか?
ヴァントがその例かもしれない。
ケルン放送響時代は名匠クラスだったと思うが、北ドイツ放送響時代からスケールが増し、ベルリン・フィルへの客演で巨匠道の完成。
映画みたいな音楽家人生だ。
だが、そういう指揮者は例外で、だいたいの名匠は巨匠に化けることなく名匠のまま音楽家人生を終えるように思う。
その理由は何なのだろう?
芸術家の格と言ってしまえば身も蓋もないが、それ以上に個性の強さでその違いが生まれてくるのではないだろうか。
クレンペラーやチェリビダッケが「巨匠」たる所以は「文句を言わせない強烈な個性」にあると思う。
俺のやり方に文句あっか?
と言わんばかりの芸術表現である。
こういう類の巨匠指揮者がブルックナーと相性がいいのは当然だ。
ブルックナーの音楽自体、我が道を行くようなものだから、巨匠指揮者のブルックナーともなれば、まさに「俺」の世界。
以前も書いたが、小椋佳の「山河」の境地なのである。
実際に聴いてもらえれば、曲調からもブルックナーの息吹を感じ取っていただけるだろう。
21世紀になり、強烈な個性の時代ではなくなってきた。
指揮者は調整型ばかり増え、上から押さえつけるカリスマ型は絶滅してしまった。
現代において巨匠と呼べる指揮者がいるとしたらバレンボイムくらいではないだろうか?
私がバレンボイムを高く評価しているのではなく、クレンペラーの指揮でベートーヴェンの協奏曲を録音するような天才ピアニスト時代から現在にかけて、レジェンドと呼ぶにふさわしい音楽家人生であるように感じるからだ。
アシュケナージもエッシェンバッハもバレンボイムほど見事な二刀流ではないし、メータやムーティはバレンボイムよりはスケールが落ちるように感じる(それでも現代屈指の一流指揮者ではあるが)。
ヴァントが晩年に巨匠に化けたのは、おそらくケルン時代に比べて音楽表現が深化したからではないだろうか。
その「深化」は、わかりやすく言い換えれば「表現がより個性的になった」ということではないだろうか。
私はケルン時代のヴァントの録音はほとんど聴いたことがないので何とも言えないが、彼が名匠から巨匠に脱皮できた要因が「強烈な個性」なのだとしたら、指揮者の個性が必ずしも歓迎されない現代において巨匠指揮者が現れないのは自明のことなのかもしれない。
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