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高堂つぶやき集。
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2021年3月の記事一覧

昔からイカ墨には目がない。パスタもよいが、カレーを召しあがったことがあるだろうか?かつて下北沢の或るバアでその漆黒カレーが期間限定であり、あの面影を舌が今でも探している。諸外國もよいけれど、意外と日本のちいさき店に絶品がある。写真は葉山で出逢えたリゾットでこちらもたしかであった。

AIや文明が不得手そうなもののひとつに「干し」がある。日本には水干しといって、水のなかで干すという文化もかつてはあった。物理的乾燥ではなく浄化を求めての慣習であろう。齢四十を越えたあたりから、私はこのような干し方を好むようになった。人生も十年単位で水干ししていきたいものである。

今年度も無事に生かされたこと、そして新たにご縁を頂戴できたことに感謝申しあげたい。震災やコロナがあっても、福島の富岡では桜がまいとし咲く。年度末であろうが変わらず星星はまわる。端然と春のせせらぎのように流れていくことである。こう云った傍から人は言の葉に寄りかかる生き物ではあるが。

ふり帰れば21回目のビックバン、計2兆5千万年の宇宙がある。たしかに真理から眺めれば時は存在しないものの、逆に云えば「今ここ」こそ2兆あまりの年月の集大成であり、全宇宙の中心になる。それ故に人の寿命はかくも短く、はかない。しかし、それ以上に無常なのは実は人よりも星に違いないのだ。

開発が過ぎた横濱を散歩するのは厭ではない。近代化する以前、ここも歴とした港として機能しており、若き父がその船で働いていた。その時分の面影が強かったのだろうか。父は社名にportをつけて、晩年まで仕事を愛し他界した。突如その法人を継いだ今、夜の港の風だけは感じていきたいものである。

概して目に映らぬ者を神という。つまり物質化とは神の自己否定から生まれたとも視られる。神が人としての肉体を保ちつづけるためには、神の領域の氣が人体を破壊するのを防ぎながら(といっても身体は相当に傷つけられるけれども)、動くことも、語ることもなく、ただ在ることのみしか許されていない。

インドの手相術が起源の流年法なるものがあり、それで人生の区切りを私は視たりする。例えばそれが35歳であったなら、その年は音階の半音を飛ばすがごとく人生の舵を切るべきだと助言することが多い。これまでの延長上で生きていては、人は綺麗に1オクターブあげることなど到底できないのだから。

櫻より梅を愛でるのが好きだ。櫻も厭ではないが、花びらが幾重もあったり、染井吉野のようなクローン櫻はやはり手放しで好きにはなれない。ぽつりぽつりと素朴に咲く山櫻あたりが私の性にあうようである。花は散るから美しい。しかし作為的に一斉に散られては、それはもはや花でないのではなかろうか。

過日の強風で庭の椿がどさりどさりと落ちていった。花とはいえ、迫力のある落ち方をする。視覚にほぼ凡てを捧げてしまった近代人からしてみれば、椿が落ちる様に武士道を視たりするけれど、凡てを嗅覚に捧げてきた花にとっては依然とした花の香りが風にのってどこかにいってしまっただけなのであろう。