喫茶去

頭で考えるより、腹で考えるから、人生は面白い!  会社員・中小企業診断士の傍ら、PTAをやったり、団地やマンションの理事を務めたりしました。 ちょっとした違和感・ズレ感を、その原因にさかのぼって考えることが多いようです。 いろいろと首を突っ込んでいます。

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頭で考えるより、腹で考えるから、人生は面白い!  会社員・中小企業診断士の傍ら、PTAをやったり、団地やマンションの理事を務めたりしました。 ちょっとした違和感・ズレ感を、その原因にさかのぼって考えることが多いようです。 いろいろと首を突っ込んでいます。

最近の記事

聖アンデレ(4-C) なぜ惹かれるか & どう見倣うか

どんな組織にもマネジメントが必要とされます。そして、規模が大きくなり、継続性も高まってくると、組織のトップにいる人物の「思い」を実現するための番頭役が必要になってきます。成功した組織はトップ(CEO)と番頭(CFO)の二人三脚で成長しているように見受けられます。  世の中は美談であふれており、その中には作られた美談も多いのが実際です。自らの評判を高めるために、また他者の評判を下げるために作られ流される美談は、往々にして歴史的現実からは離れていきます。往々にしてトップ(CEO

    • 聖アンデレ(4-B) 信仰の深さの尺度をめぐって

      聖アンデレに近づくことができなくても、自分を高めることが出来るかも知れない。その気持ちをもって、聖アンデレに倣って生きることができないでしょうか。どこまで行っても不十分だとは思いますが、どうすればいいのか検討してみましょう。 倣うということまず、「倣う」は、「すでにあるやり方(手本など)を真似して、その通りにすること」という意味として捉えておきましょう。幼い鳥が、親鳥の真似をして羽をばたつかせ、羽の動かし方を理解していくことで、やがて自分も飛べるようになっていく、というイメ

      • 聖アンデレ(4-A) 消された一番弟子

         聖アンデレは、イエスの番頭として素晴らしい活躍をした人物であったにもかかわらず、なぜ忘れられてしまったのでしょうか。一度、確認しておきましょう。  黄金伝説における聖アンデレ先にも引用しましたが、『黄金伝説』は、ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230年頃~1298年7月13日)​という、中世イタリアで、ジェノヴァの第8代大司教を務めた人物が著した聖人等の伝説を集成したものです。冒頭、第1章で「主の降臨と再臨」が描かれた後、第2章が「聖アンデレ」に充てられています。  ここで

        • 聖アンデレ(3-D) イエス教団の収支と経営

          イエス教団を維持・運営するには、どれくらいの規模のメンバーを、どのような体制で、何を資金源としていたのでしょうか? まず、イエス教団の規模を図るには、2つの捉え方があると思われます。 イエス教団の収支一旦、イエス教団は狭義の30~40名程度のこととし、その収支を考えてみましょう。 まずは、資金の使い道(資産、費用)を考えましょう。 (1) 資産の部 イエス教団は、旅をしながら布教するという新しい布教スタイルを採用しています。そのため、資産としては軽いものが多かったと

          聖アンデレ(2-i) 通説への疑問

          次に進む前に、ここまでの議論をおさらいしつつ、通説との相違について整理しておきましょう。 イエスという人物 イエスは、もともとは敬虔なユダヤ教徒の家庭で、モーセの律法を信じて敬虔に生きていた人物でした。しかし、育ての父ヨセフの死を機に、実父がレバノン兵士パンテラであり、自らは非ユダヤ人とユダヤ人との間の混血であってモーセの律法では救われないことを深刻に悩むようになり、20代後半に故郷である貧村ナザレから出奔。エリヤの再来と呼ばれた洗礼のヨハネの弟子となりました。 洗礼のヨ

          聖アンデレ(2-i) 通説への疑問

          聖アンデレ(2-H) 三位一体の謎 ~イエスの神格化

           キリスト教徒でない者にとって、キリスト教の(特に、西方教会の)「三位一体」(父なる神、子なるイエス、聖霊)という考え方は、なかなか理解しがたいものがあります。史上初めて「三位一体」という言葉を使ったのはカルタゴのテルトゥリアヌス(160頃~220頃)と言われています。当時は、キリスト教の教義がつくられていく時期に当たっており、イエスの聖なる性質をめぐって、人間であるキリスト教徒同士が激しく対立するようになります。当然、イエスの没後に始まる対立を、生前のイエスが把握していた訳

          聖アンデレ(2-H) 三位一体の謎 ~イエスの神格化

          ファティマ 第3の秘密 (全文)からの懸念

          ファティマの奇跡とは?ポルトガルのファティマ(Fatima)で1917年に聖母マリアが降臨し、羊飼いの子どもたち3名に啓示を与えたといわれています。これがファティマの奇跡です。(カソリック教会も正式に認めている「奇跡」とされています。) その様子は、いろいろに書かれています。例えば以下をご参照ください。 7万人が、どんな風に目撃したかは、以下のリンクの写真を見てください。 内容は?1917年は、第1次世界大戦中です。 第1の啓示(預言かつ予言)は、第1次世界大戦の終結

          ファティマ 第3の秘密 (全文)からの懸念

          聖アンデレ(2-G) 黙示録の復権

          ユダヤ戦争でエルサレムが陥落した70年から数十年間は、特殊な時代であったと思われます。 先ず、イエスの弟子たちが亡くなっていき、主に孫弟子たちが活躍していた時代です。彼らは、弟子のように「この目で見た、聞いた」というイエスの言葉を伝えることが出来ません。人徳による教化だけでは少数精鋭主義とならざるを得ず。教団の成長は望めません。 他方で、聖典としては、マルコ福音書や聖パウロの一連の書簡などが散発的に知られているだけで、自分の属する集団の立場と聖典の主張が必ずしも一致してい

          聖アンデレ(2-G) 黙示録の復権

          聖アンデレ(3-C) 信者ネットワークづくり

          古代のキリスト教のネットワークというと、ローマ帝国下で置かれた5つの管区のことを思い浮かべる方も多いでしょう。5管区の大司教は、ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、エルサレム、アンティオキアそれぞれの教会(五本山)に常駐し、各管区を統括していました。 それより以前では、聖パウロの布教を思い浮かべる方も多いでしょう。異邦人伝道を自らの役目と認識した聖パウロは、エフェソス、コリントス、テッサロニケ、タルソス、アンティオキアなど、ヘレニズム文明を支えたギリシャ都市を

          聖アンデレ(3-C) 信者ネットワークづくり

          聖アンデレ(3-B) 教団運営を託されて

          イエスが聖アンデレに託したことイエスは、洗礼のヨハネの教団が解散させられた後、自己の布教を満足のいく形で遂行するためのパートナーとして、まず第一に聖アンデレに声がけをしています。そして、聖アンデレの眼鏡にかなった人物(ペテロ、聖フィリポなど)を教団に採用しています。 この経緯を見る限り、イエスは、聖アンデレに教団経営をゆだね、自己は布教に専念しようと考えていたのではないかと思われます。換言すると、イエスは、「神殿との対決」に向けて万全の体制をとるために、教団の組織作りと運営

          聖アンデレ(3-B) 教団運営を託されて

          聖アンデレ(3-A) イエスは「発酵」の力を信じた?

           聖アンデレが心酔したと思われるイエスの思想を振り返って見ましょう。この思想を振り返ることで、なぜイエスが聖アンデレをスカウトに来たか、聖アンデレはなにを期待されたのかが分かるように思われます。その際、鍵となるのは、以下の4点ではないでしょうか。 (1) イエスの身体と血 (2) イエスの律法感 (3) イエスの終末思想・救済思想 (4) イエスのリーダーシップ イエスの身体と血イエスは、いわゆる「最後の晩餐」において、神殿との闘いの前に、自らの身体をパンに、血をワインに

          聖アンデレ(3-A) イエスは「発酵」の力を信じた?

          聖アンデレ(2-F) グノーシス主義

          グノーシス主義とは、聖フィリポの弟子シモンが広めたとされる考え方で、イエスの教えを継承した一派です。グノーシスというのは、「認識」「正しい知恵」という意味の古代ギリシア語です。「自分の本質を知る」ことを標榜しています。   グノーシス主義は、一般には以下のように説明されます。 原始キリスト教とともに出現したのは、イエスの弟子たちの間の対立なのですから当然のことです。ペテロたちの創始した「正統派」キリスト教とは激しく対立しながら、正統派が政治的権力に取り込まれ地位を確立するに

          聖アンデレ(2-F) グノーシス主義

          聖アンデレ(2-E) ペテロ

          ペテロは、福音書の中で、12使徒の中では常に1番目に書かれている、初期からのイエスの弟子です。聖アンデレの導きでイエスに弟子入りしています。  聖書には、ペテロという表記以外にも、シモン、シモン・ペテロ、ケファなどの呼び名が示されています。生前は「岩の断片」「石」の意味をもつ「ケファ」というあだ名で呼ばれており、このギリシア語訳がペトロス、ラテン語がペテロになります。 生年不詳ですが、没年は67年と言われ、初代ローマ教皇とされています。 絵画では、鶏とともに描かれること

          聖アンデレ(2-E) ペテロ

          聖アンデレ(2-D) 弟子たちの対立、イエス教団の分裂

          フィリポやステファノなどは大きく「ヘレニスタイ」(ギリシア系)と言われます。対立する一派は「ヘブライオイ」(ヘブライ系)と言われます。  イエス没後、この対立が先鋭化していき、それぞれの教義が発展します。新約聖書27文書にも影響を与えていきます。 まずは大きく違いを把握してみましょう。 ヘブライオイの中心は、義人ヤコブです。当初はペテロが中心になってイエス教団を引き継ぎましたが、早々に聖フィリポ等と激しく対立し、分裂させてしまいます。 イエスの後継者であるイエスの弟

          聖アンデレ(2-D) 弟子たちの対立、イエス教団の分裂

          聖アンデレ(2-C) イエスの磔刑と復活を検証する②管理部門の視点から

          前回(2-B)を、イエス教団の管理部門の立場から見直してみましょう。 エルサレム行きにあたって聖アンデレはCFOですので、イエスに従ってエルサレムに同行したと思われます。イエス教団の仮の本部としての宿の準備や、食事の手配など、庶務を取り仕切っていたことでしょう。 エルサレムに同行した弟子の数は、ある程度厳選されていたと思われますので、ここでは、12弟子に、その妻子を足した20~30人程度と想定しておきましょう。それなりに大きな宿屋などでないと泊まることができない人数ですね

          聖アンデレ(2-C) イエスの磔刑と復活を検証する②管理部門の視点から

          伊勢物語「深草の里」(第123段)を読む

          伊勢物語の第123段を読んでみましょう。この段を「鶉」(うずら)とか「深草の里」と呼ぶ人もいますが、正式名称ではありません。ここでは「深草の里」と呼ぶことにしましょう。 ちなみに、伊勢物語は、古今集の六歌仙の一人で、色男として知られた在原業平(825~880)の和歌を主なモチーフとして、「いろごのみ」の理想形を描いたショートショート集です。900年前後に書かれだし、徐々に継ぎ足されて成立したと言われています。 ですので、「正本」が存在せずに、有力な「写本」が複数あるという

          伊勢物語「深草の里」(第123段)を読む