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聖アンデレ(4-A) 消された一番弟子

 聖アンデレは、イエスの番頭として素晴らしい活躍をした人物であったにもかかわらず、なぜ忘れられてしまったのでしょうか。一度、確認しておきましょう。

 黄金伝説における聖アンデレ

先にも引用しましたが、『黄金伝説』は、ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230年頃~1298年7月13日)​という、中世イタリアで、ジェノヴァの第8代大司教を務めた人物が著した聖人等の伝説を集成したものです。冒頭、第1章で「主の降臨と再臨」が描かれた後、第2章が「聖アンデレ」に充てられています。

 ここでは、聖アンデレについて福音書に基づき簡単な概説がなされた後、11編のエピソードが紹介されています。

 第1は、聖マタイによるエチオピア宣教。宣教が失敗し、処刑されそうになった聖マタイを聖アンデレが救出します。これは、『アンドレ』(Andreas)という古い英文詩にもなりました。この詩では、聖アンドレが食人族に捕らえられている聖マタイを神の命により救い出し、食人族をキリスト教に改宗させるとされています。

 特徴的なのは、黄金伝説においては、食人族をエチオピアに比定していること、聖アンデレがアンティオキア教会を拠点としており、聖マタイをアンティオキアに逃がしていることです。

 前者については、使徒行伝において聖フィリポの功績とされているエチオピア宣教の功績を聖アンデレに帰すことで「聖フィリポの功績を消す」ことが目的とされているのかも知れません。詳細は不明です。識字率も低かったでしょうから、意図的に書き分けても、聖書との違いには気づく人は少なかったでしょう。

 後者については、アンティオキア教会の成立の謎に関係します。世界で最初に「キリスト者」を名乗り(使徒行伝11:26)、エルサレムにいるイエスの弟子たちと対等に接することが出来ていること、異邦人とディアスポラの混合教会でユダヤ的伝統に固執していないことから、アンティオキアには、エルサレムのペテロやヨハネと比肩し得、かつ、彼らとも関係が良好なイエスの高弟がいたと推測されます。当然、ニコラオもその一員でしょう。しかし、黄金伝説によって、中世ヨーロッパでは聖アンデレがアンティオキア教会に関連付けれていたことが分かります。これが正しいとすると、聖アンデレはニコラオを伴ってエルサレムからアンティオキアに行き、そこでイエスの教えを広めるための教会を作ったのかも知れない、という想像が働きます。最初にキリスト者を名乗ったのは、聖アンデレの指導によるものだったということです。

 さて、第2、第3、第5、第8、第11のエピソードは、異教徒や、神の前に不誠実な者が聖アンデレによって死に至らしめられる、というエピソードです。厳格な側面を強調しています。

 第6、第7は、敬虔な信者が死に至った時に生き返らせたエピソードです。また、第4、第8、第10は、敬虔な信者を聖アンデレが常に見守っていることを示すエピソードです。そして、第9は、聖アンデレの墓に関するエピソードです。「聖アンデレの墓からは、小麦上のマナとかぐわしい油とが流れ出る」などの伝説を紹介しています。

 これらを見る限り、厳格ながらも慈悲深く、面倒見の良い性格として、聖アンデレが信奉されていることが分かります。

 

アンティオキア教会

 さて、ここに登場したアンティオキア教会ですが、現在は、5つあるとされています。

特に、431年に東ローマ皇帝のテオドシウス2世が召集したエフェソス公会議(第3全地公会)、451年に東ローマ皇帝マルキアヌス(Marcianus)が召集したカルケドン公会議(第4全地公会)など、5世紀に、人間同士の間で議論が生じたことで、キリスト教の教義がいくつかに分かれていきます。結果的に、現在、アンティオキアの名を冠する総主教もしくは総大司教を戴く教派(教会)は、以下の通り5つあります。(順不同です。いづれも、アンティオキア(トルコ領)ではなく、ダマスカス(シリア)に拠点をおいています。)

 【正教会】
● シリア正教会(非カルケドン派)
● アンティオキア総主教庁(アンティオキア正教会)(正教会)

【カソリック教会】
● シリア典礼カソリック教会(東方典礼カソリック教会)
● マロン典礼カソリック教会(東方典礼カソリック教会)
● メルキト・ギリシャ典礼カソリック教会(東方典礼カソリック教会)

 東方典礼カソリック教会というのは、正教会や東方諸教会で用いられる典礼を使いながらもローマ教皇権を認めてカトリック教会の教義を受け入れた教会、または、正教会から分離してカソリックの庇護下に入った教会と言われています。ウクライナ等では、ユニエイト教会という言い方もされていました。正教会内部での人間間の対立を受け、教会ごとカソリック側に着いたものの、典礼などのやり方は従来通り正教会の様式を踏襲している教会のことです。

 公会議などの結果によって分裂をしており、また、拠点の場所も変わっているとなると、聖アンデレの遺蹟があるかどうか、また、あったとしてもなにが本当の遺蹟なのかを見抜くのは極めてむつかしくなっている可能性があります。

 教会の分裂

 公会議のたびに「正統」的な教義が決まると、それに対する形で「異端」が決まります。

 例えば、先に出てきたシリア教会(非カルケドン派)とは、カルケドン公会議(451年。第四全地公会)での結論に異論を唱えている、という意味です。カルケドン公会議は、ネストリウス派キリスト教を改めて否定し、キリストに神性と人性の両方があるとして単性論を排斥しました。人間同士の争いであるこの会議の結論を受け入れるか受け入れないかで、カルケドン派と非カルケドン派に分かれています。

 教会の分裂で最も大きいものは、1054年の東方教会と西方教会の分裂でしょう。この年、ローマ教皇レオ9世とコンスタンディヌーポリ総主教ミハイル1世キルラリオス(ミカエル・ケルラリオス)とが相互に破門しあったとされており、この結果、分裂が決定的になりました。しかし、それまでにも信仰上の相違による軋轢がありました。(例えば、世界史の授業で、726年の東ローマ皇帝レオ3世によるイコン禁止令が、ゲルマン布教を進めていたカソリック教会側に混乱と反発を引き起こした、などと習った方も多いでしょう。)従い、この事件は、ローマ・カソリック教会が、ゲルマン民族の支援を獲得したことで、東方教会との相互破門の形を通して独立していったものと考えるのが妥当でしょう。

東方教会(正教会)における神と人間

 聖アンデレの布教地域が、現在の東方教会(正教会)のエリアにあったということは、その分、聖アンデレの実像が知られる機会が西側ヨーロッパにおいて減るということでもあったでしょう。他方で、東方教会(正教会)における神の捉え方は西方教会とは大きく異なっていますので、一旦、東方教会(正教会)の特徴を確認しておきましょう。

 1. 汎在神論(パンエンティズム)

正教では、自然(宇宙万物)つまり被造物は、神との霊的交わりの中にあると考えます。神の存在は全宇宙を包括し浸透しているので、「万物は神の内にある」とする思想です。

ロシア正教会の教えを文学で展開した、ロシアの文豪ドストエフスキーは、登場人物に次のように言わせています。これがパンエンティズムを反映したものであることは一目瞭然でしょう。

 兄弟たちよ、人々の罪を恐れてはならない。罪あるがままの人間を愛するがよい。なぜならそのことはすでに神の愛に近く、地上の愛の極致だからである。神のあらゆる創造物を、全体たるとその一粒一粒たるとを問わず、愛するがよい。木の葉の一枚一枚、神の光の一条一条を愛することだ。動物を愛し、植物を愛し、あらゆる物を愛するがよい。あらゆる物を愛すれば、それらの物にひそむ神の秘密を理解できるだろう。ひとたび理解すれば、あとは倦むことなく、日を追うごとに毎日いよいよ深くそれを認識できるようになる。そしてついには、もはや完璧な全世界的な愛情で全世界を愛するにいたるだろう。
(フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』第6編「ロシアの修道僧」よりゾシマ長老の発言録から。原卓也訳、新潮文庫版(中巻)p.141)

 西方教会のエリアは、ルネッサンスを経ていることもあって人間中心主義が浸透しています。そのため、アリストテレス的な「他人やモノは、自分の目的(形相。モルフェ)を達成するための材料(質料。ヒューレー)でしかない」という考え方が強く出てくる場合があります。この点、西方教会と東方教会とは大きく異なることが、ドストエフスキーがゾシマ長老に託した言葉からも理解できると思います。

 2.テオーシス(人の神化)

ニケーア公会議でアリウス派と対立したアタナシオス派の祖であるアタナシオス(アレクサンドリア大主教)の言葉として、正教会では、次の言葉が重視されています。

神が人となったのは、人が神になるため。
(アレクサンドリアのアタナシオスの言葉。出典不詳。)

 これが、祈りの言葉として類型化されています。

 ハリストスよ、爾(なんじ)は友に言えり。我が国に於て、我が神として爾等諸神とともに居る。
             (聖大木曜早課 第4歌頌 第3トロパリ)

 イエスの「人の子」概念を拡張したものであることが分かります。この点で、神と一般民との直接のつながりが重視されない西方教会とは、大きく異なっていることが分かります。

 3. 言行一致

神と一般民とが直接につながり、人間が神化することから、神のように生きることが理想とされます。2点だけ指摘しておきましょう。

 (1)  聖愚者(ユロジヴィ)

聖愚者ユロジヴィとは、キリストの名のもとにすすんで地上の幸福を放棄した人、キリストの受難を自発的に追体験するため昼は市井にあってボロをまとって徘徊し、寒さ・暑さ・飢え・辱めを忍び、夜は聖堂の軒下などに野宿して祈る聖人のことをいいます。「聖愚者」以外にも「瘋癲行者」「佯狂者」「至福者」などと訳されます。思想的な源泉は、パルジファルやホモ・ヴィアトールなどと同じような、巡礼者にあったのかも知れません。

 モスクワに(1990年にユネスコの世界遺産に指定された)聖ワシリイ大聖堂があります。もともとは、モスクワ最初の皇帝(ツァーリ)であるイヴァン4世(イヴァン雷帝)(1530~1584年)が、カザン征服を記念し、聖母(生神女)マリアのために設立した聖堂ですが、聖愚者ワシリイ・ブラジェンヌィの墓の上に小聖堂を加え増築したことで、聖ワシリイ大聖堂と呼ばれるようになりました。この聖ワシリイは、イワン雷帝に対して、その恐怖政治を批判したことで有名です。聖愚者は、誰もができない権力者に向って批判の言葉を投げかけることができるのです。

 

(2)  聖職者の政治活動

否定されるものではありません。例えば、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」には、ゾシマ長老の発言として、次の科白があります。

 孤独な富者と、物質や習慣の横暴から解放された者と、はたしてどちらが偉大な思想を称揚し、それに奉仕する力を持っているだろうか? 修道僧はその隠遁生活のために非難される。「お前は修道院の壁の中でおのれを救うために隠遁なぞして、人類への兄弟愛的な奉仕を忘れたのだ。」だが、いったいどちらが兄弟愛にいっそう努力しているか、もう少し様子を見ようではないか。なぜなら、孤独が生まれるのは、われわれのところではなく、彼らのほうであり、それに気づかぬだけだからだ。われわれの間からは昔から民衆の指導者が輩出してきた。今日もそうした人物がありえないはずはあるまい。精進と無言の行にはげむ同じその謙虚で柔和な修道僧たちが、やがて立ちあがり、偉大な仕事におもむくことだろう。ロシアの救いは民衆にかかっている。ロシアの修道院は昔から民衆とともにあった。・・・民衆を大切にし、民衆の心を守らねばならない。静寂のなかで民衆をはぐくみ育てることだ。これこそ、あなた方修道僧の偉大な仕事である。
(フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』第6編「ロシアの修道僧」より、ゾシマ長老の発言録から。原卓也訳、新潮文庫版(中巻)p.130~131)

 キリストに従って生きることは、人生の指針であり、生き方そのものであるという発想が、宗教と経済・政治などを分離せずにとらえる考え方として息づいていることが分かります。他方で、人々は神と直接に結びつくため、従前の聖職者を特別扱いすることもなく、東方教会にあっては西方教会よりも積極的に記録を残そうという動きがなかったということでもあるでしょう。

 いずれにしても、東方教会が、ペテロの衣鉢を受け継ぐ西方教会とは異なる要素を持っていることが確認できたと思います。

イスラム教との関係

 さて、東ローマ帝国の支配地域、つまり東方教会のエリアのうち、特に南方エリアはイスラム教圏に入ることが多く、この経緯からも、キリスト教の記録を敢えて残す理由が少なかったように推測されます。

 なぜ東方教会が、イスラム教に改宗していったのでしょうか。

 先に書いたように、アリウス派・アタナシウス派の対立にはじまるキリスト教の教義論争は、キリストやイエスの性質をめぐる議論だけではなく、二神を認めるかどうか(本当の神のあり方)をめぐる議論でもありました。

 微妙な問題がつきまとっていた。それが人々の間にある種の倫理的情熱をかきたてた。聖職者は互いに分派に分かれて争い、教会は混乱した。論争において優位に立つことは、世俗的権力の利用においても優位に立つことであったから、あらゆる分派は、論争に勝つために、政治的権力への志向を強めた。東ローマ帝国は、教会内のこのような神学上の問題の紛糾に手を焼き、ほとんど途方に暮れてしまった。・・・
 
教会内部の打ち続く闘争は、帝国内部に次々と分離教会を生み出し、イスラム軍隊が、帝国の国境をこえて、シリアやエジプトを踏みにじったとき、もはや帝国は、異教徒にたいし結束して戦う力を喪失してしまっていた。・・・驚くべきことにキリスト教徒は、むしろこぞってそれを歓迎したのである。彼らが、いわゆるキリスト単性派の信者たちであったことはいうまでもない。彼らの言葉を、そのまま用いると「復讐の神はアラブ人を用いてわれわれをローマ人の手中から救い出した」のである。
 
これには、さまざまな非難と、同時に弁明がある。が、いずれにせよ、イスラム教徒の侵攻にさらされながら、キリスト教会が全く無傷のままであったという事実が、すべてを語りつくしている。
 
東ローマ教会を数百年にわたって混乱におとしいれたキリスト論をめぐる論争は、この場合にも引き留める力としてよりは、むしろ引き離す力として働いた。大多数の民衆は、力によってではなく、むしろ社会的経済的な理由によってイスラム教に改宗していった。
 
キリスト教徒は、東ローマ教会の皇帝よりも、イスラムの征服者を自分たちにふさわしい主権者として選択した。・・・形勢は、短時日のうちに逆転した。キリスト教徒はマイノリティーへと転落したのである。
(山形孝夫『砂漠の修道院』p.234~240)

キリスト教が、ローマ帝国の国家権力を結びついて発展してきたことは前述の通りです。しかし、帝国支配が人々の日常生活だけでなく精神世界にまで及ぶことで、人々の間に、神と権力との齟齬を強く認識させてしまい、キリスト教への信仰そのものを失わせる結果になった、ということです。国家権力と結びついた宗教は、宗教としての本質を見失いがちとなりやすくイデオロギー化しやすいという教訓として捉えておきましょう。

 聖アンデレが忘れられた理由

 いままでの議論を整理しつつ、検討してみましょう。

 聖アンデレはギリシア系の名前からわかる通り、生粋のユダヤ人ではありません。エルサレムのキリスト教徒たちとは親密でありながらも、ユダヤ教やイエスに対するスタンスは異なります。イエスの弟である義人ヤコブとは、ほどよく距離をおいていたことでしょう。また、アンティオキアやシノぺといったヘレニズム都市を拠点としつつも、トルコ(小アジア)、ギリシアから黒海周辺のヘレニズム都市を回って布教したとすると、地理的に異なるローマ教会などに記録があまり残っていないのは仕方ないことと言えるでしょう。

 聖アンデレの衣鉢(聖アンデレが受け継いだイエスの教え)は、カソリック協会(西方教会。ペテロが受け継いだイエスの教え)よりも東方教会側に残されている可能性がある、とは言えるかも知れません。しかし、アンティオキアの教会は分裂しており、聖アンデレの布教地域はイスラム圏に入っていた時期も長く、また、東方教会にはローマ・カソリックのような中央主権的な官僚機構は存在せず各教会の自主性・裁量の幅が大きいこと、そして、東方教会のエリアにおける信仰は実践を伴うために個別人格を離れて存在しません。客観的な知識としての聖アンデレを情報化・記号化して残すことは、結果的に行われませんでした。そのため、現在伝えられていることの何がイエスや聖アンデレの衣鉢なのか、それとも後代に入ってからのものなのかを見極めることは、現在の私たちにはむつかしい状態にあります。

 また、聖アンデレが問題を顕在化する前に処理する「無事是貴人」タイプの人とすると、その偉大さは伝わりにくかったのかもしれません。世の中には、問題を顕在化させその処理に奔走することで自分の存在意義を確認したがる人も多く、そういった人たちには、先手先手で対策を打ってトラブルを予防していく聖アンデレの働きは評価されなかったでしょう。

 さらに、聖書の中心は、イエスであり、ペテロであり、パウロでありと、なにかしら精神的にマイナス感情を抱いていた人たちでもあります。あの人たちですらマイナス感情を克服して聖人になったのだと説明できる要素が布教にとっては重要だったでしょう。そういったマイナスの要素のない人については、布教の都合上、記録には残す必要がなかったのかも知れません。

 以上に加えてさらに付言するならば、ペテロをイエスの後継者と見做す立場からは、イエスが洗礼のヨハネの弟子だったことや、聖アンデレがペテロの兄弟子だったことを認めることには躊躇がいることでしょう。ペテロの弟子たちにとって、布教や信仰の都合上、ペテロはイエスの一番弟子であると主張したいという人間的な欲求から、都合の悪い聖アンデレを積極的に忘却し、その性格や位置づけを変えようとしたのではないか、とも思えます。良く知らない聖人について無視・忘却することは、(正義の観点からみると問題はありますが)人間心理としては合理的ともいえるでしょう。

 結果的に、聖アンデレは、スコットランドやコンスタンティノープルなど、ローマ教会(つまり、ペテロの威光をもって政治力を伸ばそうとたくらむ人々)に政治的に対抗する必要がある人たちによって、初代司教・総主教や守護聖人として利用されるようになっていきました。しかし、これでは、聖アンデレ自身に倣うというよりも、反ペテロの象徴として名前を利用しているだけでしかありません。

 逆に、東方典礼カソリック教会のように、正教会に対して対抗したい場合にはペテロの名前を使うこともあったでしょう。聖アンデレに対しても、ペテロに対しても、それぞれの崇高さ・宗教性を崇敬する人も多かったとは思います。しかし、お二人が、国家や教会といった組織運営の場面においては組織の権威付けのための記号として政治的に利用されたことも多かったという点は否定できないでしょう。

 こうした要素が複合して、実存在としての聖アンデレは忘れられた存在になっていったのではないでしょうか。

 

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