聖アンデレ(3-A) イエスは「発酵」の力を信じた?
聖アンデレが心酔したと思われるイエスの思想を振り返って見ましょう。この思想を振り返ることで、なぜイエスが聖アンデレをスカウトに来たか、聖アンデレはなにを期待されたのかが分かるように思われます。その際、鍵となるのは、以下の4点ではないでしょうか。
(1) イエスの身体と血
(2) イエスの律法感
(3) イエスの終末思想・救済思想
(4) イエスのリーダーシップ
イエスの身体と血
イエスは、いわゆる「最後の晩餐」において、神殿との闘いの前に、自らの身体をパンに、血をワインに例えて弟子に受け取るよう促しています。ともに発酵食品である点が特徴的です。
発酵は、黴菌・酵母菌や細菌などの働きにより食物の状態が変化する作用です。例えばパンの場合、酵母菌が小麦に含まれる糖分を食べ、二酸化炭素とアルコールを排出します。これを、小麦に含まれるたんぱく質が結合してグルテンとなって受け止め、ふっくらと膨らみます。ワインの場合も同様です。ブドウの糖分を酵母菌が食べ、二酸化炭素とアルコールを排出することで、ブドウのジュースが薫り高き飲物へと姿を変えていきます。
発酵と似ているものの、大きく異なるものは腐敗です。
イエスが発酵食品をもって自分の身体と血とした意味は、明快だと思います。
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パンやワインには、生地を膨らまし香りを引き出す力が備わっている。一つの形の中に閉じ込められたとしても、その中において、時間をかけて中身をよりよく変えていく力をもっている。人間も同じだ。この世に人間として生まれ、各人が与えられた環境内から抜け出ることは難しいようにみえるかも知れない。しかし、人間の中にも発酵する力がある。鍛錬し、思索することで、中身が変わり熟成される。人は、表情や態度、そして行動を変え、人生をも変えることができる。
これは、外から強制してもできないことだ。あくまで内なる自己を伸ばさなくてはならない。
発酵の神秘に驚嘆しつつ、その同じ力を自分たちの中にも感じよう。このように感じられることこそ、神性がわれわれにも一部共有されている証拠、神がわれわれに直接語り掛けている証拠であり、神との契約の証しだ。神によって与えられた生きる力・発酵力を充分に感じ取り、その力を分け与えてくれた神に感謝し、その力を最大限に活かして生きていこう。
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おおよそ、このような趣旨なのではないでしょうか。その意味で、イエスが、地球上の他場所で生まれ育っていたとすれば、パンとワインを示したとは限らず、チーズ、ヨーグルト、味噌や納豆などを示した可能性もあると思います。
なぜ、このように考えられるか、という疑問もあると思います。イエスは熱心なユダヤ教徒でした。ユダヤ教において、霊(ルーアッハ)は、風や息吹という意味です。神の息吹がやってきて人や動物などに生命が与えられ、息吹(霊)が抜けると死に、土に還ることになります。この息吹が体内に留まっている「証」を、イエスたちは発酵に見出した、と考えられると思うのです。
イエスの律法感
先述の通り、イエスの律法は、モーセの律法からイエスが抜粋した2つです。
人間に備わった「発酵力」との関係で敢えて書くとすれば、次のようになるでしょう。
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真の生きる力(発酵力)を授けてくれた神を崇拝し、同じように発酵力を発揮して神の英知をたたえる仲間たち(隣人)とともに、より良い人生を生きるように努めなさい。これこそが神の律法である。
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聖パウロの「ガラテヤ人への手紙」も、この観点から捉えなおすべきものと思われます。
関連するイエス自身の言葉も、確認しておきましょう。
トマス福音書(113節)にある「父の国は地上に拡がっている。そして、人々はそれを見ない」にも通じる指摘と思われます。イエスが、内面のあり方を外から強制されたルールよりも重視している事例は、「よきサマリア人」はじめ他にも多数挙げられるでしょう。
さて、外生的なルール(律法)を重視する必要がないとイエスが主張する理由は、どこにあるのでしょう。イエスの師である洗礼のヨハネは、このような言葉を残しています。
ユダヤの律法の中で最も大切なアブラハムの律法ですら、神の一存でどうとでも変えることができる、ということです。アブラハムの律法に基づいたモーセの律法は、言わずもがなです。実際、すでにモーセの律法は形骸化しており効力を失っていると指摘されていました。
イエスの律法観は、師である洗礼のヨハネの思想と同様に、モーセの律法が形骸化していることは当然としつつ、その土台となるアブラハムの律法を、その根源としての「神の力」(生命力、発酵力)にさかのぼって捉えなおしたものと言えるでしょう。アブラハムの律法の根源に依拠している思想のため、モーセの律法という派生形態の一つを理由に非難されたとしても、まったく動じなかったのです。
イエスの終末思想・救済思想
先に確認したところですが、イエスは旧約聖書の記載に基づいて、異邦人や宦官を含む幅広い救済(死後の天使としての復活)を信じていたと考えられます。ギリシア系の聖アンデレや聖フィリポが、イエスに親しく仕えることができたのも、イエスが分け隔てなく接してくれるリーダーだったからでしょう。
死後の復活があり、魂が天使のようになって永遠に存在し続けるという発想が根底にあるため、(死後に持ち越すことができない)権力や金銭などに惑わされなかったともいえるかも知れません。むしろ。権力や金銭に執着すると復活した後に自らの心の闇に落ちて無間の地獄をさまようことにならないよう、生きているうちに神の息吹(精霊)を自らの中に感じるよう説いた回ったのではないでしょうか。
イエスのリーダーシップを検討する意義
イエスにリーダーシップがあったことを疑う人はいないでしょう。テクトン(土木工事、建築工事の従事者)の頃に培ったカリスマ性や人徳が、洗礼のヨハネ教団の中で花開き、不特定多数の人々を一瞬でとりこにし、信者としていく力になったことも間違いないでしょう。
しかし、イエスのカリスマ性や人徳だけで大きな集団を維持・統率できる訳ではありません。教団経営には、そのための適切な知識と経験が不可欠で、これを欠いてしまうと、イエスの目の届く範囲でしか弟子を増やすことができません。どんなに優れた教師であっても、一度にはせいぜい数十人程度の生徒しか教えられないからです。
その意味で、イエスのリーダーシップとともに、イエス教団の運営のあり方が分かれば、どのよう形で教団が発展したかを把握することができるのではないでしょうか?
ウェーバーのカリスマ・リーダーシップ論
社会学の泰斗マックス・ウェーバー(1864~1920)によるカリスマ・リーダーシップ論は、この問題について社会科学の目で検討した嚆矢の一つと思われます。
1910年代前半に書いたものと推測される遺稿「統治の諸類型」(Die Typen der Herrschaft)において、ウェーバーは、統治には①合理的・合法的なもの、②伝統的なもの、そして③カリスマ的なものの3類型があると喝破しました。
カリスマ的リーダーシップについて、ウェーバーは次のように述べています。
しかし、こういった「真の意味での人格的な社会」には永続性がないため、後継者などに引き継がれ、教祖亡き後も教団が存続する場合は、カリスマ的統治から、ルールに基づく統治(合法的支配)または因習に基づく統治(伝統的支配)へと統治の性質も変わっていくことが指摘されています(マックス・ウェーバー『権力と支配』p.93~111)。
イエスの場合、法的な裏付けも、神殿との因習的な関係もないことから、③カリスマ的な統治によって教団や信者を帰依させたと言っていいでしょう。ウェーバーの書きぶりも、イエスたちを念頭に書かれたもののように見受けられます。
しかし、イエスがカリスマ的なリーダーシップだけで教団を率いていたと結論付けてよいものなのでしょうか? この点は、なお検討の余地が大きいと思います。
リーダーシップとマネジメントの補完関係
というのも、マックス・ウェーバー以降のリーダーシップ論の展開は、徐々にリーダーシップとマネジメントを相互補完性のある機能として位置付けるようになっているからです。
心理学者R・M・ストグディル (Ralph M. Stogdill)やC・シャートル(Carrol Shartle) を中心とする米国オハイオ州立大学の研究チームは、トマス・カーライルの『英雄及び英雄崇拝』(1841年)以降の研究を網羅しつつ、リーダーに関する実証研究を通じて、リーダーに求められる特性を行動面から分析しようとしました。ここから、「課題の設定・達成」と「良好な人間関係構築」という2つの行動パターン軸でリーダーシップ行動を分析していくオハイオ州立大学研究モデルが生まれます。
こういった研究成果に、P・F・ドラッカーなどのマネジメント論が結合していきます。この結果、いまでは、リーダーシップとマネジメントの相互補完的な位置づけが明らかとされています。
イエスがリーダーシップを担っているとしたら、その達成に向けたマネジメントを担うパートナーがいて初めて教団が円滑に回ったはずです。聖アンデレがその役割を担ったであろうことは想像に難くありません。
イエスのリーダーシップ
イエスのリーダーシップを、その要素とともに整理してみましょう。優れたビジョンを示し、啓発と動機づけによって人々を動かしていくというリーダーシップが正にイエスにおいて体現されていたと分かります。
1.ビジョンの提示
すべての人間が神と直接に交信でき、死後も救済されていると確信できる未来が到来するというビジョンを示した。その未来がいつ来てもいいように、人々に意識変革を促した。
2.現状打破と変化
祭司でなければ、エルサレム神殿でなければ、神と交信できないと言われている現状を打破し、異邦人を含むすべての人々が救済を確信できる世界が到来するというビジョンを示し、その実現のために意識・行動を変化するよう説いて回りました。
3.動機づけと啓発
たとえ話や警句を用いて説明することで、また、人々を癒したり、赦したりすることで、人々に救済を実感させ、賛同を得ていきました。
4.真摯かつ一貫した態度・行動
イエスは、嫌がらせや侮蔑のような問いかけにも、真摯に答えました。信者や聴衆からの質問にも自らの言葉で答えました。布教の旅においても、その態度・行動は一貫しており、人々に信じるに足る人だという期待を醸成しました。
このイエスの真摯さについては、20世紀に活躍した文明論者・ユマニストであるホセ・オルテガ・イ・ガセットの次の言葉が参考になるように思います。
イエスは、自らの生涯をかけて「神の国」の到来に生をかけました。このこと自体がイエスの活力であると同時に、迷いの中で生きている人々にとって視野を広げるきっかけ、そして人生の指針となり、そのこと自体が、その人々の魂の救済となったことでしょう。
イエスとその弟子たち、信奉者たちは、絶望的な環境の中で、生きる希望と神の救済を見出し、そこに全人生をかけました。その熱意が、その真摯さが、世の中を変えていったのです。われわれがイエスや弟子に対して共鳴するのも、この熱意や真摯さを感じ取るからではないでしょうか。
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