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聖アンデレ(3-A) イエスは「発酵」の力を信じた?

 聖アンデレが心酔したと思われるイエスの思想を振り返って見ましょう。この思想を振り返ることで、なぜイエスが聖アンデレをスカウトに来たか、聖アンデレはなにを期待されたのかが分かるように思われます。その際、鍵となるのは、以下の4点ではないでしょうか。

(1) イエスの身体と血
(2) イエスの律法感
(3) イエスの終末思想・救済思想
(4) イエスのリーダーシップ

イエスの身体と血

イエスは、いわゆる「最後の晩餐」において、神殿との闘いの前に、自らの身体をパンに、血をワインに例えて弟子に受け取るよう促しています。ともに発酵食品である点が特徴的です。 

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれを割き、弟子たちに与えて言われた。
「取れ、これはわたしの身体である。」
また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。イエスはまた言われた。
「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない。」
(マルコ福音書14:22~25)
 

主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた。
「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい。」
食事ののち、杯をも同じようにして言われた。
「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい。」
(パウロ「コリントス人への第一の手紙」11:23~25)
 

発酵は、黴菌・酵母菌や細菌などの働きにより食物の状態が変化する作用です。例えばパンの場合、酵母菌が小麦に含まれる糖分を食べ、二酸化炭素とアルコールを排出します。これを、小麦に含まれるたんぱく質が結合してグルテンとなって受け止め、ふっくらと膨らみます。ワインの場合も同様です。ブドウの糖分を酵母菌が食べ、二酸化炭素とアルコールを排出することで、ブドウのジュースが薫り高き飲物へと姿を変えていきます。
 
発酵と似ているものの、大きく異なるものは腐敗です。

自分の内なる力で育ち、強い生命力を備えた作物は「発酵」へと向かう。生命力の強いものは、「菌」によって分解される過程でも生命力を保ち、その状態でも生命を育む力を残している。だから、食べものとしても適している。
反対に、外から肥料を与えられて無理やり肥え太らされた生命力の乏しいものは「腐敗」へと向かう。生命力の弱いものは、「菌」の分解の過程で生命力を失っていく。だから、食べものとしてはあまり適していない。
「天然菌」は、作物の生命力の強さを見極めている。リトマス試験紙のように、生命の営みに沿った食べものを選り分けて、自分の力で逞しく生きているものだけを「発酵」させ、生きる力のないものを「腐敗」させる。ある意味で「腐敗」とは、生命にとって不要なもの、あるいは不純なものを浄化するプロセスではないかと思うのだ。
(渡邉格『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』p.141-142)

イエスが発酵食品をもって自分の身体と血とした意味は、明快だと思います。

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 パンやワインには、生地を膨らまし香りを引き出す力が備わっている。一つの形の中に閉じ込められたとしても、その中において、時間をかけて中身をよりよく変えていく力をもっている。人間も同じだ。この世に人間として生まれ、各人が与えられた環境内から抜け出ることは難しいようにみえるかも知れない。しかし、人間の中にも発酵する力がある。鍛錬し、思索することで、中身が変わり熟成される。人は、表情や態度、そして行動を変え、人生をも変えることができる。
 
これは、外から強制してもできないことだ。あくまで内なる自己を伸ばさなくてはならない。
 
発酵の神秘に驚嘆しつつ、その同じ力を自分たちの中にも感じよう。このように感じられることこそ、神性がわれわれにも一部共有されている証拠、神がわれわれに直接語り掛けている証拠であり、神との契約の証しだ。神によって与えられた生きる力・発酵力を充分に感じ取り、その力を分け与えてくれた神に感謝し、その力を最大限に活かして生きていこう。

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おおよそ、このような趣旨なのではないでしょうか。その意味で、イエスが、地球上の他場所で生まれ育っていたとすれば、パンとワインを示したとは限らず、チーズ、ヨーグルト、味噌や納豆などを示した可能性もあると思います。 

なぜ、このように考えられるか、という疑問もあると思います。イエスは熱心なユダヤ教徒でした。ユダヤ教において、霊(ルーアッハ)は、風や息吹という意味です。神の息吹がやってきて人や動物などに生命が与えられ、息吹(霊)が抜けると死に、土に還ることになります。この息吹が体内に留まっている「証」を、イエスたちは発酵に見出した、と考えられると思うのです。 

イエスの律法感

先述の通り、イエスの律法は、モーセの律法からイエスが抜粋した2つです。

ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した。
「すべての戒めの中で、どれが第一のものですか。」
イエスは答えて言われた。
「第一の戒めはこれである。
『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。』(※ 申命記6:4~5)
第二はこれである。
『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。』(※ レビ記19:18)
これより大事な戒めは、他にない。」
(マルコ福音書12:28~31)
 

人間に備わった「発酵力」との関係で敢えて書くとすれば、次のようになるでしょう。
 

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真の生きる力(発酵力)を授けてくれた神を崇拝し、同じように発酵力を発揮して神の英知をたたえる仲間たち(隣人)とともに、より良い人生を生きるように努めなさい。これこそが神の律法である。
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聖パウロの「ガラテヤ人への手紙」も、この観点から捉えなおすべきものと思われます。 

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。・・・わたしは、神の恵みを無にはしない。
(聖パウロ「ガラテヤ人への手紙」2:20~21) 

関連するイエス自身の言葉も、確認しておきましょう。 

あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。・・・神は、死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている。
(マルコ福音書12:24~27) 

彼らのためだけではなく、彼らの言葉によって私を信じる者たちのためにもお願いいたします。父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、みなが一つとなるためです。
(ヨハネ福音書17:20~21) 

トマス福音書(113節)にある「父の国は地上に拡がっている。そして、人々はそれを見ない」にも通じる指摘と思われます。イエスが、内面のあり方を外から強制されたルールよりも重視している事例は、「よきサマリア人」はじめ他にも多数挙げられるでしょう。 

さて、外生的なルール(律法)を重視する必要がないとイエスが主張する理由は、どこにあるのでしょう。イエスの師である洗礼のヨハネは、このような言葉を残しています。 

自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
(マタイ福音書3:9) 

ユダヤの律法の中で最も大切なアブラハムの律法ですら、神の一存でどうとでも変えることができる、ということです。アブラハムの律法に基づいたモーセの律法は、言わずもがなです。実際、すでにモーセの律法は形骸化しており効力を失っていると指摘されていました。 

奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。
それは主ではないか。
この方にわたしたちも罪を犯した。
彼らは主の道に歩もうとせず、その教えに聞き従おうともしなかった。
(イザヤ書42:24) 

イエスの律法観は、師である洗礼のヨハネの思想と同様に、モーセの律法が形骸化していることは当然としつつ、その土台となるアブラハムの律法を、その根源としての「神の力」(生命力、発酵力)にさかのぼって捉えなおしたものと言えるでしょう。アブラハムの律法の根源に依拠している思想のため、モーセの律法という派生形態の一つを理由に非難されたとしても、まったく動じなかったのです。 

イエスの終末思想・救済思想

先に確認したところですが、イエスは旧約聖書の記載に基づいて、異邦人や宦官を含む幅広い救済(死後の天使としての復活)を信じていたと考えられます。ギリシア系の聖アンデレや聖フィリポが、イエスに親しく仕えることができたのも、イエスが分け隔てなく接してくれるリーダーだったからでしょう。

死後の復活があり、魂が天使のようになって永遠に存在し続けるという発想が根底にあるため、(死後に持ち越すことができない)権力や金銭などに惑わされなかったともいえるかも知れません。むしろ。権力や金銭に執着すると復活した後に自らの心の闇に落ちて無間の地獄をさまようことにならないよう、生きているうちに神の息吹(精霊)を自らの中に感じるよう説いた回ったのではないでしょうか。

イエスのリーダーシップを検討する意義

 イエスにリーダーシップがあったことを疑う人はいないでしょう。テクトン(土木工事、建築工事の従事者)の頃に培ったカリスマ性や人徳が、洗礼のヨハネ教団の中で花開き、不特定多数の人々を一瞬でとりこにし、信者としていく力になったことも間違いないでしょう。

しかし、イエスのカリスマ性や人徳だけで大きな集団を維持・統率できる訳ではありません。教団経営には、そのための適切な知識と経験が不可欠で、これを欠いてしまうと、イエスの目の届く範囲でしか弟子を増やすことができません。どんなに優れた教師であっても、一度にはせいぜい数十人程度の生徒しか教えられないからです。

その意味で、イエスのリーダーシップとともに、イエス教団の運営のあり方が分かれば、どのよう形で教団が発展したかを把握することができるのではないでしょうか?

ウェーバーのカリスマ・リーダーシップ論

 
社会学の泰斗マックス・ウェーバー(1864~1920)によるカリスマ・リーダーシップ論は、この問題について社会科学の目で検討した嚆矢の一つと思われます。

1910年代前半に書いたものと推測される遺稿「統治の諸類型」(Die Typen der Herrschaft)において、ウェーバーは、統治には①合理的・合法的なもの、②伝統的なもの、そして③カリスマ的なものの3類型があると喝破しました。

カリスマ的リーダーシップについて、ウェーバーは次のように述べています。 

特定の人物の非日常的なものとみなされた資質を「カリスマ」(恩寵付与)と呼ぶことにする。この資質があることで、その人物は、他の何者にとっても近づきがたいような超自然的・超人間的な(少なくとも「非日常的な」)能力や特性を持った者、それとも、神から遣わされた者、模範とすべき者とみなされ、それ故に「指導者」として評価されるのである。
 
肝心なのは、それが、カリスマの支配下にある人々(つまり「信奉者」)によって、実際にどのように評価されるかという点である。
 
カリスマの妥当性を決定するものは、統治される者による自由な承認であるが、これは、証しによって―――はじめはいつも奇跡によってーーー確保され、啓示への帰依、英雄崇拝、指導者への信頼から生まれてくる。しかしながら(真正なカリスマのばあいには)、これは、正当性の根拠ではなく、天命による務めを自覚しその証しを得ることによってこのような資質を承認されるにいたった者の責務なのである。心理的にみると、この承認は、法悦あるいは苦悩や希望から生まれた、敬虔で全人格的な献身である。
(マックス・ウェーバー『権力と支配』p.83~84。一部改訳)
 

しかし、こういった「真の意味での人格的な社会」には永続性がないため、後継者などに引き継がれ、教祖亡き後も教団が存続する場合は、カリスマ的統治から、ルールに基づく統治(合法的支配)または因習に基づく統治(伝統的支配)へと統治の性質も変わっていくことが指摘されています(マックス・ウェーバー『権力と支配』p.93~111)。
 
イエスの場合、法的な裏付けも、神殿との因習的な関係もないことから、③カリスマ的な統治によって教団や信者を帰依させたと言っていいでしょう。ウェーバーの書きぶりも、イエスたちを念頭に書かれたもののように見受けられます。
 
しかし、イエスがカリスマ的なリーダーシップだけで教団を率いていたと結論付けてよいものなのでしょうか? この点は、なお検討の余地が大きいと思います。

リーダーシップとマネジメントの補完関係

というのも、マックス・ウェーバー以降のリーダーシップ論の展開は、徐々にリーダーシップとマネジメントを相互補完性のある機能として位置付けるようになっているからです。
 
心理学者R・M・ストグディル (Ralph M. Stogdill)やC・シャートル(Carrol Shartle) を中心とする米国オハイオ州立大学の研究チームは、トマス・カーライルの『英雄及び英雄崇拝』(1841年)以降の研究を網羅しつつ、リーダーに関する実証研究を通じて、リーダーに求められる特性を行動面から分析しようとしました。ここから、「課題の設定・達成」と「良好な人間関係構築」という2つの行動パターン軸でリーダーシップ行動を分析していくオハイオ州立大学研究モデルが生まれます。
 
こういった研究成果に、P・F・ドラッカーなどのマネジメント論が結合していきます。この結果、いまでは、リーダーシップとマネジメントの相互補完的な位置づけが明らかとされています。
 

リーダーシップとは、神秘的なものでも謎でもない。リーダーシップには、カリスマ性など個人の資質は関係ない。限られた選ばれし者だけの分野でもない。また、リーダーシップは必ずしもマネジメントより重要であったり、マネジメントの代わりになったりするものでもない。むしろ、リーダーシップとマネジメントは、相異なるも補完し合う行動体系である。どちらの活動も独自の機能と特徴を合わせ持っている。複雑さを増し、変化し続ける環境で成功するには、どちらも必要である。・・・
 マネジメントは「統制」と「問題解決」によって計画の達成を確実にする。報告書やミーティングといった方法によって、公式および非公式に計画と実績を詳細にモニターし、そのギャップを突き止めて、問題解決の計画を立て、準備する。
一方、リーダーシップでは、ビジョンを達成するための手段は「動機付け」と「啓発」である。価値観、感性など、根源的だが往々にして眠ったままの欲求に訴えかけることで、変革を阻む大きな障害があったとしても、みんなを正しい方向へ導き続けるのだ。
(ジョン・P・コッター「リーダーが本当に行うこと」第1節~第2節) 

イエスがリーダーシップを担っているとしたら、その達成に向けたマネジメントを担うパートナーがいて初めて教団が円滑に回ったはずです。聖アンデレがその役割を担ったであろうことは想像に難くありません。

イエスのリーダーシップ

 イエスのリーダーシップを、その要素とともに整理してみましょう。優れたビジョンを示し、啓発と動機づけによって人々を動かしていくというリーダーシップが正にイエスにおいて体現されていたと分かります。

1.ビジョンの提示

すべての人間が神と直接に交信でき、死後も救済されていると確信できる未来が到来するというビジョンを示した。その未来がいつ来てもいいように、人々に意識変革を促した。 

2.現状打破と変化

祭司でなければ、エルサレム神殿でなければ、神と交信できないと言われている現状を打破し、異邦人を含むすべての人々が救済を確信できる世界が到来するというビジョンを示し、その実現のために意識・行動を変化するよう説いて回りました。

3.動機づけと啓発

たとえ話や警句を用いて説明することで、また、人々を癒したり、赦したりすることで、人々に救済を実感させ、賛同を得ていきました。

4.真摯かつ一貫した態度・行動

イエスは、嫌がらせや侮蔑のような問いかけにも、真摯に答えました。信者や聴衆からの質問にも自らの言葉で答えました。布教の旅においても、その態度・行動は一貫しており、人々に信じるに足る人だという期待を醸成しました。
 
このイエスの真摯さについては、20世紀に活躍した文明論者・ユマニストであるホセ・オルテガ・イ・ガセットの次の言葉が参考になるように思います。 

生きるとは、何かに向かって放たれることであり、目標に向かって歩むことである。その目標は、私の道のりでもなければ私の生でもない。それは私が私の生を賭ける何ものかだ。したがって、それは私の生の遥か向こうにあるものなのだ。
もし私が、私の生の内部でだけ自己中心的に歩くつもりなら、進むこともなく、どこにも行けないだろう。同じところを堂々巡りするだけだ。これこそが迷宮であり、どこにも行きつけない道、自己の中で道に迷い、まさにおのれの内部を歩き回るだけの道なのである。
(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』14:4) 

イエスは、自らの生涯をかけて「神の国」の到来に生をかけました。このこと自体がイエスの活力であると同時に、迷いの中で生きている人々にとって視野を広げるきっかけ、そして人生の指針となり、そのこと自体が、その人々の魂の救済となったことでしょう。
 
イエスとその弟子たち、信奉者たちは、絶望的な環境の中で、生きる希望と神の救済を見出し、そこに全人生をかけました。その熱意が、その真摯さが、世の中を変えていったのです。われわれがイエスや弟子に対して共鳴するのも、この熱意や真摯さを感じ取るからではないでしょうか。

神学が、イエスは生まれながらにして全知全能だったと決めてしまったために、その生涯が実に味気ないものになってしまった。それでは、三年間の布教活動には危険も何もなく、あらかじめ決められたとおりに演ずる芝居も同じということになる。そんな人生のどこに興味を持てるだろう。どうして共鳴などできるだろう。
(ブルース・バートン『誰も知らない男』p.16)


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