聖アンデレ(2-G) 黙示録の復権
ユダヤ戦争でエルサレムが陥落した70年から数十年間は、特殊な時代であったと思われます。
先ず、イエスの弟子たちが亡くなっていき、主に孫弟子たちが活躍していた時代です。彼らは、弟子のように「この目で見た、聞いた」というイエスの言葉を伝えることが出来ません。人徳による教化だけでは少数精鋭主義とならざるを得ず。教団の成長は望めません。
他方で、聖典としては、マルコ福音書や聖パウロの一連の書簡などが散発的に知られているだけで、自分の属する集団の立場と聖典の主張が必ずしも一致しているわけではありません。
そして、ユダヤ戦争が終わったことで、イエスの弟子筋は、ユダヤの伝統を気にせずにすむようになりました。その一方で、ヘブライオイやへレニスタイなどの影響を受けたグループがバラバラに存在しています。
そのような中、当時一番の勢力を誇ったのはグノーシス主義者たちだったでしょう。シモンやその弟子の布教興行によって「イエスによって、人類はすべて救済された」というメッセージが伝えられ、それは地中海世界を席捲していきます。
グノーシス主義者は、組織としての体をなしておらず、騒擾事件を起こす元凶としてしばしば公安当局に目を付けられていました。しかし、グノーシス主義に触れた人たちが、イエスの流れを汲んだ教団に(シモンたちの興行で得た知識だけで)(それがペテロの流れにある教団であっても)ある種の誤解から入信し続ける傾向が継続的にみられたことでしょう。
90年代になって、秩序維持を唱える文書が数多く書かれたことの背景には、各教団に、自己の教団を維持・発展させるための施策が求められるようになった結果でしょう。少なくとも以下の3点は、各教団が「まともな教団」であるべき際の要素として求められたと推測されます。
(1) イエスの教えを継いでいること
(2) 組織としての発展に資すること
(3) 社会秩序に合致していること(公安当局に目を付けられないこと)
この流れの中で、ユダヤ的な黙示思想が復権するとともに、イスカリオテのユダを悪者にするという人為的な操作が行われていきます。裏切者をつくり誹謗し非難することで、秩序を維持しようというのです。その意味で、その後のキリスト教会による「排除の論理」をつくるきっかけは、この時期に生じていると言えるでしょう。
イスカリオテのユダの悪役化
先述の通り、イスカリオテのユダは、年代が進むにつれて「イエスを引き渡した人物」という扱いから、「裏切者」へと、悪の度合いが高められています。キリスト教会がイスカリオテのユダを「裏切者」として名指ししていったというのは、これにより「あぁいう奴になってはならない。(だから、こちらの言うことを聞け)」という組織維持上の目的があったからに他ならないでしょう。
しかし、ペテロは、先述の通り、当事者として「イスカリオテのユダが来たのでイエスが引き渡されてしまった」と淡々と「事実関係」を述べたにすぎなかったのではないかと思われます。ユダが裏切ったという点については、疑義があることはすでに述べた通りです。
また他方で、組織の維持に腐心しないグノーシス主義の側には『ユダの福音書』が遺されました。全知全能のイエスは、愛する弟子ユダに対して、自らを引き渡すようあえて依頼し、それをもってユダの精神を正して高みに上げたというのです。
このように、教団ごとに、その置かれた状況によって、イスカリオテのユダという人物の捉え方が異なっていることが分かります。このことは、改めて、イスカリオテのユダが裏切者ではなかったこと(一部の教義によって、あえて裏切者と位置付けられたことと、裏切者として指定した教団が著しい成長を遂げ発言力が高かったこと)をよく示していると思われます。
ユダヤ戦争の影響
組織を維持するにあたって、「裏切者の末路」を示すには、もう一つの方法があります。
救済の場面で「裏切者だけは救われない」姿を示す手法です。そのために、イエスが指摘した「神の国」の到来を、ユダヤ教的な終末思想に融合させていきました。
当時は、ユダヤ戦争(その中で行われた阿鼻叫喚)の記憶も、まだ多くの人々に共有されていた時期です。ユダヤ戦争(66~73年)は、ローマ帝国による、ユダヤ神殿からの宝物の略奪に反発したユダヤ人たちが暴動を起こしたことが発端とされています。ローマ帝国側は暴動の首謀者を処刑することで事態を収拾しようとしますが、かえって反ローマの機運を全土に飛び火させてしまいます。俗世とは関係を断ったはずのエッセネ派の人々までもが反乱に参加していきました。ローマ帝国側も、当時はローマ皇帝が定まらず、周辺地域(ゲルマニアなど)でも反乱がおきた時期で、制圧もままなりません。ローマは、皇帝の乱立状態に終止符を打った上で、ユダヤ戦争への本格的対応を図り、70年に首都エルサレム、73年にマサダ要塞を陥落させて、終戦しました。
(ちなみに、この戦争に関しては、2つの世界遺産があります。一つは73年に陥落したマサダ要塞です。もう一つは、「ローマの歴史遺産」の中に含まれる「ティトゥスの凱旋門」です。これは、82年、ローマ帝国第11代皇帝ドミティアヌスにより建てられたもので、兄ティトゥスのエルサレム攻略を称えるために建てられたものです。この門は、後に建てられる凱旋門のモデルとなりました。)
さて、その終戦にあたっては、ユダヤ人たちの集団自殺が数多く行われました。ローマ帝国による虐殺・凌辱等を予防するために行われたもので、くじで当たったメンバーが実行者となって、他のメンバーを集団殺害したとされています。マサダ要塞の場合、約1000人が籠城に参加していましたが、隠れて生き延びた7名を除き、全員この形で亡くなっています。くじで当たったメンバーは、最後に自害する場合もあれば、(『ユダヤ古代誌』『ユダヤ戦記』を著したフラウィウス・ヨセフスのように)仲間を殺害した後にローマ軍に投降して生きながらえた場合もあったようです。ローマ兵との戦闘、略奪、仲間同士の集団殺害などの凄惨な現場を経たユダヤ人が、こういった戦いを生き地獄として捉え、黙示(神の現前)の予兆と考えて、熱心に終末の到来を唱え、研究を深めたことは想像に難くありません。この結果、イエスによる救済というコンセプトと、エッセネ派等に根強い終末期待とが、イザヤ書やダニエル書などを手引きとして接ぎ木されていきます。
ヨハネの黙示録
その成果が結実したものが「ヨハネの黙示録」です。これは100年前後に成立した文書で、冒頭でイザヤ書の黙示録(44:6、48:12)を引用した後は、ヨハネと名乗る人物の幻視を祖述した形で展開される物語です。終末が近いこと、キリストを騙るアンチキリスト(反キリスト者)によってこの世が混乱に陥ること、神が現前し悪魔との対決が行われること、神が勝利しキリストが栄光の玉座に座ること、最後の審判によって人類が篩にかけられ一部の人のみが救済されること、その後の「永遠のエルサレム」が約束されること、といったモチーフは、西洋の芸術文化に多大な影響を与えました。きわめて技巧的な書物で、著者の高い教養を感じさせる一方、以下のような特徴があります。
(1) 歴史的イエスへの関心がない。
イエスの地上での生涯に対し完全に無関心で、よく知られたはずの言行録上のエピソードも採用されていません。その意味で、福音書などとは別の流れに属する人物によって、救済者(メシア、キリスト)による救済が描かれたものであること、すなわち、イエスというのはたまたま救済者の名前に過ぎないものと分かります。
(2)聖パウロ等に対して批判的である
冒頭で、当時存在したであろう7つの教会に向けた手紙が書かれています。その筆頭には、聖パウロの活躍したエフェソスの教会が挙げられ苦言の対象とされています(ヨハネ黙示録2:4)。同様に、グノーシス主義的と思われる教会(テュアティラ)や、非ユダヤ人(異邦人)信者のいる教会(スミュルナ、フィラデルフィア)を批判しています。その意味で、ユダヤ教から新しくキリスト教に宗旨変更をはかった元・ユダヤ人による立場で書かれているものということが分かります。
(3)ローマ帝国を非難している
悪の象徴として描かれた「バビロンの大淫婦」は、7つの丘の上に座っています(ヨハネ黙示録17:9)。この7つの丘とはローマのことを意味しています。これは「地上の王たちを統治する大いなる都」(ヨハネ黙示録17:18)としても表現されています。その一方で、「血の復習」(ヨハネ黙示録6:10)の目的にそって、黄金の都バビロンの名前が繰り返し批判され、最後は倒されています(ヨハネ黙示録16:19、18:1~24)。ローマ帝国批判を表立ってはできない中で、(当時の)「現代のバビロン」として、ローマ帝国の首都ローマを非難しているものと分かります。
(4) ユダヤ古代史を踏まえている
神と悪魔の決戦の地「ハルマゲドン」(ヨハネ黙示録16:16)すなわち「メギドの丘」は、イスラエル北部にあります。メギドは、エジプトとアッシリア(メソポタミア)の交易ルートにある都市で、古くからの交通の要所、戦略上の要衝です。ローマ帝国時代の重要な戦略道路 ウィア・マリス(Via Maris)も、ここを通過しています。
なお、メギドは「聖書ゆかりの遺丘群」として、世界遺産に登録されています。また、世界遺産「古代都市テーベとその墓地遺跡」の一部であるカルナック神殿の外壁には、トトメス3世のメギドの戦い(紀元前15世紀に、トトメス3世率いるエジプト軍とカディシュ王率いるカナン連合軍が戦い、エジプト軍が勝利した戦い)が描かれています。
このように、ヨハネの黙示録は、キリスト教徒を名乗りながらも、明らかにユダヤ的な終末思想を基に展開する物語であるため、この書を正典として認めることについては異論も多かったようです。教会史の父エウセビオスは、その著書『教会史』の第7章をアレクサンドリアの総主教ディオニュシス(190~265年)の記録の紹介に充てていますが、この中に、ディオニュシスの次のような文章が引用されています。
「黙示思想」のキリスト教化
批判がある中で、キリスト教会は、積極的にヨハネ黙示録を受け入れ、黙示思想のキリスト教化を図っていきます。その理由はどこにあったのでしょうか。
組織の維持のために他なりません。少なくとも次の3つの要素は挙げられるでしょう。
(1) 終末の到来が近いことを明示するため
イエスが時期を分からないとし、聖パウロ等もそのような説明を踏襲していた終末の到来時期について、ここでは「すぐに来る」と強調されるようになっています。
(2) 救済対象を限定するため
救済されない人たちの末路を明確に、かつ残虐に示すことで、救済対象を限定しています。
ヨハネの黙示録においては、「血の復讐」の相手は決して救われることがない、とされています。救われるのは、キリストの認めた者だけです。
ちなみに、ヨハネの黙示録と同時期に書かれたユダヤ教の『第4エズラ書』(ラテン語版エズラ書とも)や、少し後に書かれた『シュビラの託宣』でも、救済対象が限定され、反ローマ、反権力の姿勢が強調されています。ユダヤ戦争を経て、またローマ帝国の圧政に耐え兼ねて「血の復讐」を望む気持ちが、2世紀頃のユダヤ地域に蔓延していたことを示す証拠かも知れません。その時にその土地に住んでいた人々にとって、圧政の実行者であるローマ兵士たちが、自分たちとともに救済されることは認めがたかったのでしょう。
(3) 文書の整合性をもたせ、権威を高めるため
天地創造で始まる旧約聖書に対して、すべてを滅ぼす(そして改めて創造する)という姿を描くことで、聖書全体に体系性を与えることができます。「一度作られた以上は、人生を謳歌すればいい」というグノーシス主義の亜種への対抗から生じた作業であると考えると、「自堕落にしていると神に滅ぼされるぞ」という警告の為にも、「滅びの神」を聖典として明記しておきたいという需要が生じたのでしょう。
復活信仰
「滅び」を強調することは、「救い」の可能性を示すことにつながります。ここに至って、「切りストの復活」も大きく強調するようになったのではないかと思われます。イエスの復活は、ヘレニスタイが重視しておらず、マルコ福音書では触れられてすらいません。他方で、ヘブライオイも重視していません。後述の通り、イエスの思想とも異なると思われます。にも関わらずキリスト教の教義の中枢に位置付けられたのは、「滅び」を強調するためにその対となる概念としての救いとして「復活」が必要になったからでしょうし、「復活」の可能性を絞れば絞るほど教会関係者の地位も確保できるというメリットもあったことでしょう。
イエスの言葉の変更
こういった傾向は、聖書の他の文章にも影響を及ぼさないわけがありません。人間たちによってイエスの言葉が改訂されていった様子の一例を見てみましょう。
これが、正統な教義として採用される段階では、このように変形されています。
イエスは(後述の通り)「生」を重視した思想家であったので、「人生において「命」の意味を見出す体験は、それが苦しみであったとしても結果的には幸いなのだ」と言ったのでしょう。異端とされ忘却されていたトマス福音書は、その言葉を生々しく伝えています。しかしこれが、マタイ福音書になると、義(すなわち、教会への忠誠)という価値基準が導入され、教会秩序との接合が図られるように改訂(または改竄)されていることが分かります。この問題は、この改定(または改竄)は、人間の操作によるものであることと、そして、その人間は「良いと思って」その改訂に手を染めているという点にあります。
外的統制のための道具立ての強化
歴史は、壮大な伝言ゲームです。宗教史も例外ではありません。
イエスの人徳に感化された弟子たちから、その孫弟子たち、さらにその弟子たちへと教えが引き継がれていくにあたって、イエスの遺徳が薄れていくのは仕方がないことと思われます。聖パウロのように、独身を貫き、言行一致で神のために生きるというのは、立派です。しかし、一般の人は、なかなか真似ができません。ペテロの教え(キリスト教)のように、ある程度は融通を利かせ、中庸を実践する程度でなければ、一般の人々は、なかなか信者にはなり得ません。他方で、このような折衷的なスタンスでは、精神的な陶冶は、ある程度はあらかじめ諦めなければなりません。
そのような状況において、宗教的・精神的なレベルの異なる多数の信者を集め、組織として動くように計らうためには、外的な統制手段に頼らざるを得ません。道徳的な価値を強調するとともに、救済されない人々を見せしめ役として用意する必要があったのです。それが、期限100年前後というイエスの孫弟子・曾孫弟子の時代になって、つまりイエスの遺徳が人々に理解されなくなった段階において、裏切者を創出し救済される人々を限定する要素が教義のなかに積極的に取り込まれた理由でしょう。
中世ヨーロッパになると、西方教会においては、奇跡にあずかる人々は救済され、そうでない人々は救済されないといった差別の道具として、聖体拝領(パンとワイン)や聖遺物などが利用されるようになります。その源流は、早くも100年前後にあったと言えるでしょう。
なお、西方教会は、その後も、公会議や回勅などを通じて、外的統制の強化を図っていきます。キリスト教徒以外でも知っておきたい重要なものは以下の2つです。両方とも、中世において「ヨーロッパ精神」を基礎づけた出来事です。
1215年 第4回ラテラーノ公会議
一年に一度は、神の前に懺悔と告解を行い、聖体拝領を受けることが、すべてのキリスト教徒に義務付けられました。
1302年 教皇ボニファティウス8世による回勅『ウナム・サンクタム』(Unam sanctam)
教会の外にあっては救済も罪の赦しもないことが明言されました。
この教皇ボニファティウス8世は、ダンテの『神曲』において、悪の権化、「パパ・サタン」(悪魔の教皇)などと繰り返し否定的に描かれ、地獄に落ちる運命を明記されたこと(ダンテ『神曲』地獄篇7:1、煉獄篇20:86、天国篇30:148など)でも知られています。イエスは神殿を批判し、エルサレム神殿を経由せずに神と直接につながることを説きましたが、イエスの主張とウナム・サンクタムの主張はまるで正反対です。
また、この回勅の後、フランス国王とローマ教皇との政治的な対立が鮮明化し、1303年9月に教皇が襲われるアナーニ事件が起きます。そして、これが教皇庁のアヴィニヨン移設(いわゆる「教皇のバビロン捕囚」。1309~1377年)、その後の教皇並立(ウルバヌス6世とクレメンス7世)、教会大分裂(大シスマ。1378~1417年)へとつながっていきました。
その意味で、先ほど挙げた公会議や回勅は「ヨーロッパ精神」の形成には決定的な影響を与えましたが、政治的には教皇権の王権への優位にはつながらなかったことを付記しておきしょう。
ブルース・バートンの指摘
さて、こういったキリスト教の変化や、これに伴うイエスの人物像の変遷(または矛盾)に対しては、違和感がたびたび指摘されてきました。
例えば、ブルース・バートン(1886~1967)。牧師の家庭に育ち、大学院では歴史学を専攻した後、世界的な広告会社BBDOの前身BDOの創業メンバーとして活躍。アメリカ合衆国の連邦下院議員も務めた人物です。
バートンは、イエスほどのリーダーシップがある人が、なぜ青白く陰鬱なイメージでしか語られないのだろうという疑問を幼いころから抱いていたそうです。彼の著書『誰も知らない男』(1924年)では「イエスの人間的な面ばかり強調されているというのなら、それはこれまで反対の面ばかりが強調されてきたことへのささやかな抵抗であり、私としては本望」(p.16)と述べています。
二―チェの洞察
同じ視点でありながら、より過激に、教会批判に向かった人もいます。有名なのはフリードリッヒ・ニーチェ(1844~1900)です。
ニーチェは19世紀に活躍し、現在でも広範な影響を与えている哲学者。ルター派の裕福な牧師の家に生まれ、敬虔なプロテスタントとして育ちました。しかし、古代文献学者としてギリシア哲学を研究していく中で、キリスト教とイエスの教えの乖離に気づくようになります。晩年には精神病院に入ってしまいますが、その前の著作活動の最後の時期は、音楽家ワーグナーとキリスト教それぞれに対する批判的検討に当てられました。その成果の一つである『アンチキリスト』(反キリスト者、キリスト教反駁の意味。1888年脱稿)を少し見てみましょう。
近年でも「イエスには然り、教会には否」(JESUS, YES! THE CHURCH, NO.)などと言われることがあります。その源流の一つには、ニーチェのこの批判があると言えるでしょう。