聖アンデレ(4-C) なぜ惹かれるか & どう見倣うか
どんな組織にもマネジメントが必要とされます。そして、規模が大きくなり、継続性も高まってくると、組織のトップにいる人物の「思い」を実現するための番頭役が必要になってきます。成功した組織はトップ(CEO)と番頭(CFO)の二人三脚で成長しているように見受けられます。
世の中は美談であふれており、その中には作られた美談も多いのが実際です。自らの評判を高めるために、また他者の評判を下げるために作られ流される美談は、往々にして歴史的現実からは離れていきます。往々にしてトップ(CEO)を非人間的な存在まで祭り上げ、裏方を支えた番頭(CFO)の存在など初めから無かったかのように装いがちになります。ここで取り上げたのは、そんなふうに消されてしまった無数の番頭(CFO)たちの一人だとも言えるでしょう。
こういったことは、平凡なことだったのかも知れません。忘れられても仕方ないといわれてしまうのかも知れません。
しかし、彼は、キリスト教・イスラム教、仏教(大乗仏教)という3大宗教すべての基礎に貢献した人物であり、われわれが決して忘れてはならない人物でもあるのです。
世の中を支える事務方の理想的な姿として、憧れるのです。
コミュニケーションの達人として
2匹の魚と5つのパンを思い出してみましょう。先述したヨハネ福音書のエピソード(ヨハネ福音書)です。この奇跡の実現は、イエスと聖アンデレの人徳にかかっています。イエスと聖アンデレには、それだけの人徳があり、誠意・誠実さにあふれていて、他方で、理性的な説得力があったことが分かります。
先述した通り、寄付金を募り、賛同者を増やすときには、現在も、友愛と理性とをもって説得し、寄付を通じた仲間づくりを目指すとされています。友愛の精神と理性とが、適切に融合して、仲間を次々に増やしていけるというのは、正に、コミュニケーションの天才の行うことです。それが、この奇跡を起こすくらいの人徳・説得力で行われるとしたら・・・ それは、想像できないくらいですが、一気にファンになる人が続出したことは間違いないでしょう。
イエスと聖アンデレという二人のコミュニケーションの天才がいて、その二人が組むことが出来た、ということ自体が奇跡だったのではないでしょうか。それを可能にしたのが、洗礼のヨハネの下で協力し合った日々にあったことは論を待たないでしょう。
悪魔との3つの問答
ウォラギネの黄金伝説で紹介されている第10エピソードでは、聖アンデレが知恵と慈愛に溢れ、人々の個性を尊重しつつ、人間の心の弱さも愛おしみ、守ってくれる存在として描かれています。
このエピソードの中で、聖アンデレは、悪魔と3つの問答をします。絶世の美女に扮した悪魔が、ある敬虔な司教を籠絡しようとしたタイミングで、旅の巡礼に扮した聖アンデレが教会の門前に到着します。悪魔は司教籠絡の邪魔をされたくないため、役僧を通じて問いを出し、その巡礼が答えられなければ教会の中に入れなければいいと司教に同意させ、問題を出していきます(ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説1』p.56~60)。
巡礼(聖アンデレ)の答えが的確であったため、司教たちは、感嘆していきます。この展開に怒った悪魔は、最後の問題を出します。
この質問をすること自体が、質問者が誰かを示してしまう品のないものであったということでしょう。巡礼の回答に驚いた役僧が司教に報告し、一同狼狽している間に悪魔は逃げ去っていきます。そして、聖アンデレが扮する巡礼も消えてしまいます。最後は、司教がより敬虔深くなり、ますます聖アンデレを信奉するようになったことが記されて終わります。
ここに描かれているのは、聡明で、博学で、勇気があり、大胆で、勝負に負けない聖アンデレ像です。そして同時に、必要以上には目立たないように振る舞う謙虚な姿でもあります。事務方の、そしてマネージャーの理想的な姿であり、それだけでなく、世の多くの人々の理想となる姿を、短い話の中で描き切っています。
理想的なマネージャーとして
聖アンデレが理想的なマネージャーであることを疑う人はいないと思います。ミッションの設定の確かさ、軸がぶれない仕事師、面倒見の良さ、誠実・誠意にあふれた人物といった特徴があっただろうことは、折に触れて前述した通りです。
以下では、どのような点に気を付ければ、聖アンデレに倣った行動を少しでもとることができるのかを考えてみましょう。
(1)マネージャーの務めを理解する
P・F・ドラッカーによれば、マネージャーには、次の二つの役割があるとされます。これを聖アンデレが体現していたことに異論のある方はないと思います。
しかし、こういったことを達成するのは、非常にむつかしいことです。やらなければならないことは無限に増えていきますし、きちんとやろうとすればするほど自分の時間が無くなっていきます。やるべきことに優先順位をつけ、「何故、他ならぬ今、それをしなくてはならないのか」と取組み意義を明確化しながら、大切なことを大きくは外さないようにする必要があります。
(2)ミッションを設定し、体現する
先ず、なにが大切なことかを見抜くことが大切です。そのために必要なことはミッションです。
組織の目標(企業理念など)は、雄大なものであることも多いと思います。イエス教団の場合、「本当の神の教え(福音)を周知徹底させる。このことを通じて、全人類に、魂が救済されていることを知らしめ、安心を得させる」でしょう。
こういった組織目標(ビジョン)を、組織の構成員(従業員など)の行動規範、日々心掛ける信条として具体化するのがミッションです。クレド(Credo)ともいわれます。このミッションに適うことが優先されることであり、このミッションを通じて世の中をよりよくしていくのだ、ということです。そして、このミッションは、企業文化を形成する基礎になります。そして、危機対応の指針にもなります。
最も有名な事件は、1982年に発生した「タイレノール事件」でしょう。これは、「ビジネス史上最も優れた危機対応」の事例の一つと言われたものです。タイレノールというのは、ジョンソン・アンド・ジョンソンの製造する鎮痛剤のことです。これを服用した方が何名か亡くなっていることが判明した際、ジョンソン・アンド・ジョンソンのCEOであるジェームス・パークは、直ちに対応戦略チームを編成し「まず顧客を守るためにはどうしたらいいかを考え、その次にこの商品をどう救うかを検討する」という指示を全社に出します。そして、ジョンソン・アンド・ジョンソンのクレド「わが信条(Our Credo)」に基づき、自社には責任がないと言い逃れをすることもなく、すぐにマスコミを通して「タイレノールを一切服用しないで!」と警告を発信し、自主的に商品の回収を行いました。同社は重要な情報を包み隠さず発信し続け、マスコミからの厳しい追及に対しても誠意ある対応を取り続けました。事件発覚後2カ月だけで、医療関係者向けの説明やプレゼンテーションだけでも100万回に至ったといわれています。この結果、医療関係者や消費者からの信頼の低下も一過性のものにとどめることができ、再発予防策(異物混入を防ぐ新パッケージの開発)が出来た後は、商品製造を再開することができた、という事例です。
もし、この時のCEOが「情報公開は、わが社に本当に責任があるのかキチンと調べてから、目立たぬように行おう」「損害賠償の金額を最も減らすための方策を考えよう」という発想であったら、迅速な対応もできず、社会的な損害が増えるまで自社の過ちを認められないことになり、業界関係者や消費者の信頼を失ったことでしょう。場合によっては倒産に追い込まれることもあるでしょう。一般に陥りがちなミスは、こういうところにあります。
しかし、ジョンソン・アンド・ジョンソンは、そのような過ちを犯しませんでした。タイレノール事件を、金銭の問題ではなく、社会に対する自社の関わり方(責任)の問題として捉え、迅速に対応しました。このような素晴らしい対応ができたのは、自社のクレド(ミッション)を判断基準・行動指針にできていたからです。
イエス教団は、ある程度の多人数(30~40名程度)でパレスチナ地域各所を回っていたにも関わらず、組織活動を阻害するようなトラブルが発生していません。イエスの活動や発言も、神殿との対決に至るまでは、終始一貫しています。これも、タイレノール事件の時のジョンソン・アンド・ジョンソンのように、イエス教団でも、教団の一人ひとりが、組織のミッションに照らした自分自身の日々の行動指針を理解していたからでしょう。
(3)捨てる勇気をもつ
しかし、なにが大切なことか、を具体化するのは難しいことです。ミッションを具体化するための手法を知らなくてはなりません。昨今では、これはECRS(Eliminate(除去)、Combine(結合)、Rearrange(入替え)、Simplify(簡素化))の順に日々の業務を見直すと、改善の効果も大きく、過剰や過小な改善も避けられ、さらに不要なトラブルも最小になるといわれています。
ここで肝心なことは、「捨てる」(Eliminate)ことです。将来に向けていろいろと思い悩むと、選択肢を捨てるのも勇気のいることになります。でも、マネージャーが「何をしないか」を決めないと、部下は方針を見失い、あれもこれもと手を出してしまいがちになり、結果的に、組織全体としても雑務に追われ、充実した活動ができず、無力感にさいなまされることになります。正しいことを、正しい方法で、適切なタイミングで実行するためには、雑務を極力、事前に除いておかなくてはなりません。そのためにも、マネージャーには、不安を乗り越えて「何をしないか」決める勇気、つまり捨てる勇気が必要となります。
捨てる勇気さえあれば、完全に捨てられるものであればしないことができます。必要ではあっても優先順位が高くないものは、仕組みをつくって効率的に捌けるようにすればいいのです。
最悪の事態を考え、それを回避するための手立てを講じることは、捨ててはいけません。その意味で、捨てるにも戦略性や計画性が必要性です。しかし、突き詰めて考え抜いた後は、思い切って捨てなくてはなりません。
聖アンデレが、軸がぶれない仕事師であることは、先述の通りです。聖アンデレのように正しいことを、正しい方法で、適切なタイミングで実行することが出来るためには、そのための心の準備(捨てる覚悟、捨てていいのかの熟慮など)も必要になるのです。
(4)他人のために時間を使う
聖アンデレが誠意・誠実さに溢れた人物であることは理解できますが、部下が従ったのは、なぜでしょう。推測ではありますが、聖アンデレは、余暇を周囲の人々のために使ったのではないでしょうか。
仲間を増やすにしても、寄付金を増やすにしても、その管理をするにしても、準備が必要になります。計画を立て、自己を研鑽し続けないといけないと思うことも多いはずです。すきま時間があったら、自己研鑽に費やす人も多いでしょう。
しかし、そのようなすきま時間を、一部でも他人のために使うように心がけていたのではないでしょうか。自分が潤滑油となって周囲の不安を解消するのです。結果的に、みなが前向きに動けるようになって自分の時間も結果的に増えるという好循環を生み出すこともあるでしょう。逆に、その人に振り回されて疲弊することもあるでしょう。そのすべてを楽しむのです。
黄金伝説の第10エピソードにあった第1問答は、自分と他人の違いを楽しむ聖アンデレの姿を示しています。好循環も、疲弊も含めて、他人との関わりすべてを楽しむ境地に至れるか。仏教では「縁」といいますが、ドゥールーズ=ガタリの「リゾーム」、エドゥアール・グリッサンの「関係」などにも通じる姿なのではないかと思われます。
(5)主役は自分ではなく、各人だと心得ている
神の被造物という意味で、すべての生けとし生けるものは平等です。イエスや聖アンデレは、自身をその例外だとは思っていませんでした。
聖アンデレは、人との違いを尊重し、楽しめる人でした。換言すると、聖アンデレは、各人が各自の人生の主役だと心得ていた、とも言えるでしょう。子供でも部下でも誰でも、その人が主役であると心得て、目の前にいる人のことを知りたがる。相手に気づきやチャンスを提供することで、自分では気付いていないような可能性を引き出し、伸ばすきっかけを提供できる人は、優れた教育者をはじめとして時々おられます。聖アンデレも、正にそういった人だったのではないかと思います。
(6)伝え方に気を使う
他人のために時間を使う、というのは、他人の生活、つまり、他人が主人公となる生活空間の充実のために時間を使うということです。他人をこちらの意のままに使うことではありません。他人が主語でなくてはなりません。しかし、他方で、あなたのアドバイスやサポートの効果が上がるようにしなくてはなりません。
そのために重要なことは、伝え方です。相手の立場にたって、または、仲間としての立場から、短い言葉で、的確に、必要なことを伝えることが必要となるでしょう。言葉遣いと同じくらい、相手に対する共感力、相手の本当の気持ち・願いを把握する力が重要となります。
(7)自分を見つめ直す
他方で、自己研鑽にも励まなくてはなりません。ストイックに自分を高めるためには、自分の出来ていないことを冷静に直視し、できるように一歩一歩踏み出していくことが必要となります。この自分を直視するのが、非常にむつかしいのです。
モーリス・メーテルリンクの戯曲『青い鳥』や、アンドレイ・タルコフスキーの傑作映画『ストーカー』に端的に示されたように、本当の自分やその願いと向き合うこと自体が一大決心を必要とすることであり、一つのドラマです。禅やマインドフルネスといった活動が流行しているのも、自らの心を見つめ直す術を求めている人が如何に多いかを示しています。
イエスや聖アンデレの活躍した頃の洗礼は、全身を水に浸すものでした。(今でも、正教会では、神現祭(Epiphany、主の洗礼祭)などで潜水をすることがあります。)すべてを浄化する水の中で、しかし安易に口を開けば溺れてしまう状況で、邪念を祓い、神に自分をさらけ出すのです。胎児に戻る、といってもいいかも知れません。気取る必要もなく、焦る必要もありません。推測ですが、聖アンデレはこの洗礼という行為を通じて、都度、自己を見つめ直していたのではないでしょうか?
いつも自己を謙虚に見つめ直しているので、必要以上に自己研鑽に励みすぎることもなく、軸をぶらすこともなく、必要以上に活動することもない、ゆるぎない自己を体得できたのではないかと思います。
(8)大欲をもつ
「大欲は無欲に似たり」といいます(吉田兼好『徒然草』217節など)。
「私はカネが欲しい」という人は多いでしょう。しかし、「カネが欲しい」という欲望を、主語・目的を変えて「世界中の人々が、未来永劫にわたって豊かに暮らすようにしたい」と、話を大きくしていくことで、欲は私欲から大欲となり、世の中を良くするための真摯な情熱へと昇華していきます。同様に、「世の中の人々みんながお金に困らないように」「世の中の人々みんなが空腹を感じないで生活できるように」「世の中の人々みんなが、死後、天国にいけますように」などと欲の主語を大きくしてみると、かえって無欲に近づく行為となることが分かるでしょう。
聖アンデレも、洗礼のヨハネの下に参じたときは自らの魂の救済を目指していたのかも知れません。しかし、ヨハネやイエスと出会うことによって、全人類の救済を説く宗教者になりました。
「自分が金を儲けるために」という視点で始まった事業であっても、「従業員とともに」発展するものですし、顧客のニーズに耳を傾けることは「顧客の課題解決のために」活動するという側面に気付くことでもあるでしょう。収益追求は事業の継続のために行うものですから、これと大欲とのバランスをとって活動することは可能となるはずです。
(9)聖なるものに畏敬の念を持つ
一般に宗教的感情には偏狭さと狂信性が付帯することが多いとされます。自分たちの行為を神が応援してくれていると思い込んだり、異民族を改宗・殺害することを神が喜ぶと思い込み、実践する人々が古今東西後を絶たないからです。
しかし、偏狭さと狂信性をもった人物が、聖アンデレのようなコミュニケーションの達人となることはありません。先にイエスが神をどのように捉えているかを検討したことの繰り返しになりますが、神は人知を超えた存在です。イエスや聖アンデレは、「神が自分たちを助けてくれるはず」(with God on our side)という態度はとりませんでした。(神殿との対決に臨んで死ぬ覚悟を固めたことは、その際たるものでしょう。)
人々が考えるようなことに神の活動を限定して考えることや、自分たちのたくらみに神が乗ってくると考えることは、「神は自分たちを助けるべき」という甘えから生まれます。神の意志を自らが動かせるという思い込みは、傲岸不遜であり、、神に対する畏敬の念をもっている行為とは言い難いでしょう。イエスや聖アンデレとは異なる思想にあることが分かると思います。
真摯な畏敬の念から出来ることは限られています。その中でも最も重要と思われることは、すべての存在や出来事をあるがままに前向きに肯定し、受け容れることです。人は、肯定され受け容れられることで、日常の瑣事に囚われることがなくなり、心も軽やかになります。過去を踏まえながらも、未来に向けて人生を集中できるのです。18世紀に活躍した『純粋理性批判』などで知られる哲学者イマニュエル・カントも、臨終の言葉は「これでいいのだ(Es ist Gut.)」でした。神の御業は、人間が理解しきれるものではないということを前提としつつ、理解できなくても受け止めることはできる、と腹をくくるのです。
(10)善意と善行を分けて捉え、善行に集中する
ヨーロッパの諺に「地獄は善意で満ちているが、天国は善行で満ちている」というものがあります。地獄では、人々がそれぞれの欲望を満たすために大義名分を持ち出して、お人よしの人々を利用・搾取するので、大義名分が結果を伴いません。結果的に、信じた人々が右往左往し疲弊していきます。他方、天国では、人々はまず善行を行うため、安心して信頼し合って生きていくことができます。
悪魔的な人物は、善行を行う人を引きずり降ろそうとします。まずはじめに、深く考えないままに善行を自然と行っている人たちをターゲットとして、疑問を呈していくでしょう。「それでいいの?もっと考えたら?」「費用対効果は?」「いいように使われて、損してない?」「もっと大事なことってあるよね?」「もっとつらい思いをしている人がいるよね?」「そんなことで、あの人たちの悲しみに寄りそうことができるのかな?」「本当にみんなのためになってる?」「理想を実現するなら、本当に必要なことなんじゃないかな?」「で?それでいくらになるの?」など、気を遣っているかのような体裁で大義名分を浴びせかけ、善行者の心に、善行すること自体を不安に思われるような種を蒔いていきます。そして、不安や疑心、不信感を増長させ、その解消と称して新たなルールをつくり、その中に自分のポジションを入れ込んで、支配権や権益を獲得していこうとすることでしょう。
哲学者カントは、疑うことを知らない素朴な人をだまし、自分の道具として利用・搾取しようとする人々がキリスト教徒を名乗っていることを嘆きました。ここで歎かれている行動が、イエスや聖アンデレの行動とは異なることがよく分かります。カントが嘆くのはもっともです。
イエスの「よきサマリア人」の喩えは、偏狭な大義名分には心を止めずに、善行を見つめよと説くものでした。聖アンデレは、非ユダヤ人でありながらユダヤ人たちとも交わり、ヘレニスタイ・ヘブライオイなどの対立を顕在化させることなく、洗礼のヨハネやイエスの教えに邁進できるような教団運営を行っていました。大義名分(善意)という「言葉」で判断するのではなく、善行という「行動」を基準に動き、判断していたからこそできたことなのでしょう。
恋人からの「好きだよ」という言葉、願いを持つ人の「夢を叶えたい」という言葉、政治家が説く「国民のために」「平和のために」「経済発展のために」という言葉など、言葉と行動が一致しない人が一定数存在する分野はたくさんあります。行動を見れば一目瞭然でも、ついつい聞き心地の良い言葉の方を信じて騙され、傷つけられることは多いのです。
本当に温かい人間は、「言葉」ではなく「行動」が温かいものです。
当然、聖アンデレ自らも、善行を中心に据えた活動をしていたに違いありません。
さて、ここまで、聖アンデレに倣うために必要な行動・態度として、いくつか挙げてみました。これだけでも充分に体現しようと思うとむつかしいと感じるのではないでしょうか。しかし、すべて出来ない場合でも、聖アンデレに倣って行動するだけで、人々のコミュニケーションは円滑化し、お互いの人生が豊かになるようには思えないでしょうか。必ずしも充分ではなくても、人々が共感し、協働して、互いに感謝しながら人生を楽しむことが出来る、そんな社会を迎えることができるようになる。そう信じたいと思います。
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