聖アンデレ(2-E) ペテロ
ペテロは、福音書の中で、12使徒の中では常に1番目に書かれている、初期からのイエスの弟子です。聖アンデレの導きでイエスに弟子入りしています。
聖書には、ペテロという表記以外にも、シモン、シモン・ペテロ、ケファなどの呼び名が示されています。生前は「岩の断片」「石」の意味をもつ「ケファ」というあだ名で呼ばれており、このギリシア語訳がペトロス、ラテン語がペテロになります。
生年不詳ですが、没年は67年と言われ、初代ローマ教皇とされています。
絵画では、鶏とともに描かれることがあります。これはイエスを裏切って、朝に鶏が時を刻むまでの間に3回イエスのことを知らないといったというエピソードにちなむものです。
ペテロは、激動の時代の中で、迷いながらも波乱に満ちた生涯を送った人物です。誤解されることも多く、敵も多く、苦労した人生でした。ローマにおいて、人びとに尊敬されながら亡くなったのは救いです。
ペテロに対する好き嫌いは別として、とてもサラリーマン的で、現代のわれわれから見て、特に身近に存在するように感じられる人物です。
ペテロの妻
イエスへの弟子入りの際に明らかになっていることがあります。「姑の存在」です。
ペテロに姑がいたということは、ペテロが結婚していたということです。そして、この妻は、聖母マリアやマグダラのマリアたちと同様、イエス教団に同行していました。
また、ペテロには子どもがいた、とされています(クレメンス『雑録』3:6:52)。当然、布教の旅には同行していたことでしょう。
イエス教団にて
イエスは豪快で陽気・快活な人物だったでしょう。そのリーダーシップと、明晰・鮮やかな弁舌には、ペテロもすっかり魅了されていたと思われます。
そのような中、ペテロは、12弟子の順位で常に1番に記載されていることから、布教部門のトップであり続けたと考えられます。もともとの同居人でもあり、管理部門のトップでもあった聖アンデレとは、密に連携しながらいろいろなことに対処していたことでしょう。イエスであれば「エルサレム神殿を打ち壊し、モーセがユダヤ人に与えた律法を変える」(使徒行伝6:14)と真剣に信じていたのではないでしょうか。
神殿との対決
対決の前に、事前の偵察に出たペテロは、イエスの想定するような形では神殿との対決は実現しないと気づき、偵察隊メンバーを代表して、イエスに計画変更を具申します。しかし、イエスは激怒し、ペテロのことを「悪魔」「裏切ろうとしている者」と口を極めてののしります。
まずこの段階で、ペテロは、目の前が暗転していると思います。計画をより良くまっとうするために提案したのに、信頼している先生には激怒され、妻を含む大勢の面前で痛罵され、人間性まで否定されたのですから当然です。いつも温厚で忍耐強い先生とは思えないイエスの姿を前にして、ペテロは、なぜこんな事態に陥ったのか、理解すらできなかったのではないでしょうか。とはいえ、聖アンデレのとりなしで、イエスも「神殿に入ったら、至聖所にまっすぐ向かう。それまでは何があっても気にしない」と約束してくれて、すこしホッとしたことでしょう。
しかし翌日、神殿との対決にあたり、イエスは神殿の敷地内に入ったところで、至聖所に向かうまでもなく、屋台の店主と喧嘩を始めます。この時点でまた、ペテロの目の前はまっ暗になったことでしょう。恐れていた未来が起きてしまったのですから。そんな中で、屋台の店主たちがイエスを、そして護衛役としての自分たちを襲ってきました。
ここで、ペテロの心は折れた、と思います。
ペテロにとっては、目の前の出来事は白黒写真のように、半分夢、半分現実のように進んでいったように見えたことでしょう。一旦神殿から追い出さ、ホッとしたのもつかの間、イスカリオテのユダが飛び込んできたことをきっかけに再び襲われたため、「ユダさえ来なければ、いつまでも「あいまいな状態」でいられたのかも知れないのに」と思ったことでしょう。そう思わせたのは、ペテロの率直な心情であり、(当事者性を失ったまま巻き込まれたことから生じた)ペテロ自身の被害者意識だったのかも知れません。
聖フィリポたちとの対立
しかし、聖フィリポをはじめとする管理部門の人々や、イエスとともに戦った聖トマスたちは、そうは思わず、ペテロを敵視します。最後の最後で先生を守らずに逃げ出したペテロに対しては、恨み骨髄だったことでしょう。
頼みの綱の聖アンデレは、教団の解散を宣言し、その財産の整理のためにガリラヤに戻ってしまいますし・・・
結果として、ペテロは、多くのメンバーから口をきいてもらえなくなり、妻ともども、精神的に追い詰められていったことでしょう。彼らと一緒にガリラヤに戻るよりは、「近々やってくる神の国を、もう、ここエルサレムで迎えたい」という疲れや諦めに似た心情をいだいたことでしょう。これが、イエスの教えを棄て今後は正統派のユダヤ人として生きていくという誓い(使徒行伝5:28,40)へとつながっていったと思われます。
義人ヤコブの監視の下で
しかし、エルサレムでも、ペテロの思った通りにはなりませんでした。
先ず、「神の国が来ない」という現実に直面しなければなりませんでした。そして、イエス教団の中にいたユダヤ人たちは、義人ヤコブの厳しい監視下に置かれました。
義人ヤコブとともに忘却されたヨハネは、義人ヤコブに目をかけられ、正統派ユダヤ人としてモーセの律法の遵守に精を出したものと思われます。(エルサレムの第7代目の監督となったヨハネと同一人物かも知れません。) 他方でペテロは、それになじめなかったことでしょう。エルサレム関係者がいないところでは、イエス教団の頃と同じようにゆったり過ごそうとしていたのですから。
ペテロが義人ヤコブに厳しくとがめられ、監視されていたことがうかがわれます。
しかし、ペテロがその場しのぎの対応を続けたことで、聖パウロなどは義人ヤコブとは逆の立場から言行不一致のペテロを非難するようになります。
間に挟まれたペテロの態度は、それでも中途半端です。「信念の人」「硬い岩盤」とは言い難く、まるで現代的な会社組織に勤める中間管理職のようです。
この時期のペテロにとって、もう一つの難点は教団経営です。イエス教団と異なり、教団経営の要となるCFOがいないことも大きな痛手となりました。資産家夫婦を殺害してまで資金を集めなければならなかったり、あれだけ批判・否定し続けた聖パウロに対しても破門することなく資金援助を求め続けていたことを鑑みると、義人ヤコブによる教団経営は苦しく、常に金欠状態で、つつましやかな生活が信徒に強要されたものと推察されます。
貧しくても夢を持ち、魂の救済の可能性を信じさせてくれるリーダーの下で和気藹々と過ごせたイエス教団とは大きく異なり、ただただ貧しい監視生活に、ペテロは疲弊し辟易としていたことでしょう。
ペテロの律法感①
ユダヤ人社会からのペテロの評価は高くならないまま、時が経ちます。それは当然と言えば当然で、ペテロの中の律法は、モーセの律法ではなく、イエスが抜粋した一部分でしかないからです。
ちなみに、第一の戒めは「シェマーの祈り」です。申命記(6:4~5)に基づいており、当時、一般の人々が誰でも毎日唱えている言葉でもありました。第二の戒めは、レビ記(19:18)「あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」からの引用です。
イエスを超える洞察力の持ち主として
さて、ペテロは、イエスの初期の弟子として高い地位にありました。そして、神殿との対決の失敗にあたっては、ペテロは「イエスにすら読めなかった神殿との対決の結果を把握し、イエスに事前に諫言していた人物」でもありました。
つまり、ペテロは、「エリシアの再来と呼ばれた人物」を超えるだけの洞察力をもった人物ということになります。本人の心中はともかく、イエスによる神殿との対決が失敗した後、義人ヤコブやエルサレム神殿とともに世界の終末を待つことを決意したヘブライオイのメンバーにとって、ペテロほど頼れる存在はいないわけです。
ペテロも、イエスの高弟として活躍していたところが、突然イエスに悪魔とののしられ、そうかと思えば、その後、イエスを超える存在として周囲から信望を集めるようになって、さぞ困惑したことでしょう。また、一方的に自滅してエルサレムを去っていくヘレニスタイたちに対しては、なぜここまで敵視されなくてはならないか自問自答を繰り返したでしょう。そして、義人ヤコブなどとともに、後は「近々来るはずの神の国を静かに待つ」つもりが、なかなか来ないことに対しては、ずっと戸惑い続けたことでしょう。
そこで、エルサレムにとどまった元・弟子たちで、イエスの思い出を結集し共有する作業が、ペテロを中心に自然発生的に始まっていきます。前述したQ伝承集団の誕生です。
エルサレムからの放逐
そんな中、資産家夫婦殺害事件を起こした(または起こしたことにされた)ペテロは、紀元38年頃にエルサレムを放逐され、一旦、ルダ(現在のロッド。ベングリオン国際空港のある古都)に定着したものと思われます。
ルダはエルサレムとヨッパ(現在のヤッファ)の間の村です。ローマ帝国の属州府があったカイサリアには、ヤッファを超えて向かうことになります。ペテロは、ここで、比較的自由な時間を過ごしつつも、なにかあればエルサレム教会(義人ヤコブ)に協力する旨、約束させられていたのではないでしょうか。アンティオキアへの訪問やエルサレム会議、その後の聖パウロなどの勢力分断策への協力などは、このような関係性の中で展開されたように推察されます。
ローマでの布教開始
ペテロは、初代のローマ教皇とされています。しかし、いつ、ローマに入ったかは分かりません。中世ヨーロッパでは、ペテロは「ローマを25年間拠点とした」と信じられていました。
しかし、これですと、エルサレムから放逐されてからすぐにローマに入ったということとなります。イスラエル地域内での布教(特に、ルダ(現在のロッド)やヨッパ(現在のヤッファ)での布教)や、クラウディウス帝によるキリスト教徒の追放なども鑑みると、年代があっていないようにも思われます。
いつペテロがローマに拠点を定めたのか、推測してみましょう。
ローマから追い出したクラウディウス帝は54年に亡くなっています。
その意味で、55年以降であれば、いつローマに入って布教体制を立て直したとしても違和感はないと言えるでしょう。聖パウロからの「ローマ人への手紙」が書かれた時期(55~56年)とも符合しています。55年にローマ入りして67年頃に亡くなるまで10年間ローマにとどまったとすれば、「相当長い間ローマにいた」と言ってもおかしくはないでしょう。
ローマでの布教
ペテロの布教は、ある意味で、聖フィリポの弟子たちとの対決の歴史でもありました。
聖書外典の一つ「ペテロ行伝」では、聖フィリポの弟子シモンとの対決が大きく取り上げられています(ペテロ福音書6~32節)。シモンは後述のグノーシス主義の開祖と呼ばれた人物でしたね。49年頃に、ペテロとヨハネがカイサリアに出向き、シモンの悪口を言いふらすも、その勢いは収まらなかったことは前述の通りです。
しかし、その後、再びローマでペテロとシモンが魔術で対決したとされています。この記述の含意として考えられる可能性としては、次の2つが挙げられると思います。実際、両方ともあり得たことでしょう。
〔第1の可能性〕
本当にシモンがカイサリアからローマに出向いており、ペテロと対決した。
〔第2の可能性〕
グノーシス主義は、その分かりやすさからローマ帝国内でも(特に下層民に)広まっており、ペテロは、それを否定・駆逐して、グノーシス主義の信者を、自己の信者として取り込もうとした。
(※ 宗教が別の宗教に呑み込まれることは、たまにあります。例えば、日本の仏教において、一遍の広めた時宗は、一遍の没後に、浄土真宗に教団ごと取り込まれています。)
さて、もう一つの対立軸はどうなったでしょうか。聖パウロとの対立です。聖パウロから「ローマ人への手紙」が届けられたことは、ペテロの立場を悪化させたでしょうか。
結論からいえば、それはなかったでしょう。むしろペテロの立場の強化に利用されたはずです。例えば、キリスト教史上初の教理問答(カテキズム)として90~100年頃に成立したと思われる『12使徒の教訓(ディダケー)』に、次のような文章があります。
つまり、聖パウロによる「ローマ人への手紙」は、ペテロを非難する内容であるにもかかわらず、「聖パウロが、逮捕される直前に、ペテロを心配してわざわざ送ってくれたもの」としてペテロの教義に取り入れられ、その地位の安定化に利用されたと思われます。
ペテロの律法感②
さて、使徒行伝には、キリスト者たるべき4つの条件というものが書かれています。
この点については、聖パウロが一切言及していないことから、当日に議論されたものではなく、ヘレニスタイ側には共有されていない主張と思われます。また、そもそもこのような妥協点は、イエスも、義人ヤコブも、聖パウロも認めようしなかったはずです。(イエスは不品行で産まれた人物のため、不品行を否定されると自分自身を否定することになりますし、義人ヤコブはモーセの律法の完全な実施を実践する人物のため妥協することはあり得ません。そして聖パウロの主張とも異なっています。)
そうすると、このような妥協が聖書に残っているのは何故か?誰によるものか?検討する必要があります。
妥協的な生き方を繰り返しており、その割に、イエスや義人ヤコブ、聖パウロといった有力者の発言を覆したり改変したりしても大丈夫なほどに説得力がある人物でなければ、この操作ができないはずです。そのような人物として最も相応しく、そして実際に可能であったのが、ペテロであることは、論を待ちません。
義人ヤコブの軛から逃れたペテロが、ローマで布教する中で、エルサレム会議の出席者の一員として、史実を偽って主張した内容が、このような、いってみれば「新しい律法」として結実したのではないでしょうか。
実際、このような妥協点がなければ、キリスト教が人々に受容され信者を増やすことはなかったように思われます。ペテロの妥協点を探る嗅覚の鋭さ、センスの良さを感じます。
ペテロはイエスの後継者なのか
ペテロと晩年のイエスの対話がヨハネ福音書(21:15~19)にあります。聖書の中で最も美しい名場面の一つです。おそらく事実ではないものの、ここに現われたペテロの迷いは、晩年のペテロの心境をよく表しているようにも思えます。
アガパオーは、仏教でいう「南無」です。南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、南無大師遍照金剛など、仏教では「南無」、つまりアガパオーが重視されます。神仏や聖者に対して信者が無条件に信頼している状態です。これに対して、フィローは、信者が主体性を残しながら、神仏や聖者とは独立の対等な関係として向き合う状態です。先述の通り、イエスを死に至らしめた事件において、ペテロはイエスから迷惑を蒙っていたとすれば、ペテロはイエスに対し、無条件な信頼よりも、むしろ、互いに一人の人間として接し合い、唯一神に向き合う仲間同士として認め合いたいという気持ちをもっていたかも知れません。
ペテロは、様々な勢力の中で板挟みになり苦労してきた人物です。ある意味でローマに来て初めて、自己の信じるままに布教ができるようになりました。ローマの識字率は他所よりも高く、組織運営に優れた人たちも弟子になったことでしょう。ペテロは、組織運営に汲々とすることなく、それまでに内省し育んだ思想を、ここローマでは、自分自身の言葉として自由に発することができたでしょう。
また、聖フィリポと異なり、ペテロには、教団として認知されるほどに大きな弟子の集団が育ったこともペテロがどういう人物だったかを物語ることでしょう。師ペテロを弟子たちが支えるという構図ではなく、弟子たちを師ペテロが支えていたのではないでしょうか。もともと「人を見ている」(マルコ福音書8:33)人物でもあり、また、苦労人でもあるため、弟子を守り、その精神的成長を育む活動に尽力したことでしょう。
晩年になればなるほど、温厚で暖かい人柄として知られるようになり、その人柄にも磨きがかかり、より尊敬されていったことでしょう。そして、そのペテロが、神に対して、そして、師イエスに対して足元にも及ばないと謙遜する姿勢は、周りの人々に感銘を与え、ペテロに対する尊敬の念をさらに深くしたことは想像に難くありません。
しかし、先述の通りイエスへの愛情が「アガパオ―」ではなく「フィレオ―」であることは、他の弟子たちが「アガパオー」の愛情と崇敬をイエスに感じ伝道している中では特異なものとなり、イエスの教えとは齟齬をきたした可能性(すなわち、イエスの教えでないものがイエスの教えであるかのように伝わった可能性)があるのではないか検証しなくてはなりません。
人々を導く力、イエスに対する畏敬の念、神への信仰心。ペテロのこういった点については、なんら疑う必要はありません。この検証は、あくまで歴史的な観点からの、ペテロはイエスの衣鉢を継いでいるのかどうか、この点についての検証です。
既に、イエス教団のリーダーの地位はペテロは引き継いでいなかったことは確認した通りです。これに加え、先述のヨハネ福音書の記載は、イエスの教えの核心について、ペテロは「もう付いていけない」と伝えたという指摘にもなっています。(ヨハネ福音書がグノーシスの影響を受けている、つまり、ペテロ派とは異なる文脈でつくられた文書であることは前述の通りです。)ですから、ペテロの教え(またはペテロの弟子たちが推進する西方教会のキリスト教)が、「イエスの教え」なのか、「(神への崇敬またはイエスへの尊敬の念から生じた)ペテロの独自の教え」なのかは、検討されるべき価値のある論点でしょう。イエスにゆかりの深い地(エルサレムやガリラヤ等)ではなく、ペテロの布教・殉教の地ローマがローマ・カソリック教会の総本山であり続けていることは、ローマ・カソリック教会が「イエスの教え」ではなく「ペテロの教え」を受け継いだ存在であることの傍証になるかも知れません。
また、神とのつながりを重視しない点も、ペテロの特徴かも知れません。ペテロ本人は、イエスと同様、唯一神に仕える身として、神(本当のユダヤ教の神)を崇敬していたことでしょう。他方で、先のエピソードの通り、ペテロの心は、イエスと直接につながることを拒絶しました。個人としてのペテロは、あまりにイエスと近すぎ、それがためにかえって傷ついてしまった(それが結果的にイエスとの死別につながった)ため、やむを得ないことだったでしょう。
しかし、イエスが神の地位に昇っていくにあたって、ペテロのイエスに対する態度が、後世の信者の神に対する態度へと受け継がれてしまったようです。ペテロの教えには、イエスへの絶対的な帰依、無条件でのイエスとのつながりがないため、その後の後継者たち(ローマ・カソリック教会その他の西方教会)においては、指導者たち(聖職者)と服従する者たち(信徒)の2種類のみが教会に残った形になっています。西方教会において、「神とのつながり」や「魂の救済」よりも、「信仰」(信徒から神・指導者への偏愛)や「教会組織への忠誠」が重要となったきっかけは、こういう点に起源があるのかも知れません。こういう西方教会における神への向き合いが、他のキリスト教教会(特に正教会)とは異なった要因なのではないかと思われます。
「ケファ」の意味
さて、以上を踏まえて改めてペテロが「ケファ」と呼ばれた意味を考えてみましょう。
ヨハネ福音書にはこの解説はなく、マタイ福音書では教会の土台となるほどの信念・信仰心の強さをペテロが持っていることが明記されています。
しかし、いままで見てきた通り、ペテロは、ある意味で最も人間的であり、優柔不断な人です。目の前の人のために一生懸命頑張る人であったでしょうが、何があっても信念を貫いて人々の信仰の土台・礎となろうといった人物ではありません。イエスの神格化も見られるため、イエスからペテロに後継指名があったというような記載は、後代による創作と位置付けていいでしょう。
さて、改めて「ケファ」と呼ばれた理由として考えられるとすれば、後は何が理由としてあり得るでしょうか。
一般的なあだ名のつけ方を鑑みると、身体的特徴か、精神的特徴かも知れません。
1.身体的特徴の可能性
堂々とした体格や顔立ちから、皆が「岩」(ケファ)と呼んだ。
2.精神的特徴の可能性
ペテロが、若いころ、「頑固な人」「強情な人」、つまり「自分の思い込みが入ると、間違いを認めたり、謝ったりすることができなくなる人」だった。(参考:マルコ福音書14:66~71、マタイ福音書26:29~74、ルカ福音書22:56~60、ヨハネ福音書18:25~27。)
どちらにしても、深い意味がないままに呼ばれたあだ名であったでしょう。そう考えると、ペテロを非難する時に聖パウロが「ケファ」という表現を使っていることも納得できます。この言葉に尊敬の念はこもっていないのです。他方で、ペテロに実際に会ったことのない信者が増えていくほど、後付けで、ペテロが「岩」のような信念の持ち主、立派な人物と見なされるようになったことも、矛盾なく説明できると思われます。
クォ・ヴァディス
ペテロの殉教については、ポーランドの小説家ヘンリク・シェンキェヴィチによる歴史小説『クォ・ヴァディス: ネロの時代の物語』(Quo Vadis: Powieść z czasów Nerona)が有名です。(1896年に出版され、1905年にノーベル文学賞を受賞した他、何回か映画化もされています。)聖書外典のペテロ行伝(35節)などの諸伝説を踏まえて書かれています。
キリスト教徒への迫害が強まるローマにおいて、ペテロは最後までローマに留まるつもりでしたが、周囲の人々の強い要請により、渋々ながらローマを離れることに同意した場面です。
この「(主よ、)どこに行かれるのですか?」が「クォ・ヴァディス(・ドミネ)」です。この言葉、そして物語の展開はヨハネ福音書のやり取りにも似ています。文書化の過程で影響しあっていたのかも知れません。
そして、ペテロは十字架に架けられました。その際の十字架(ペテロ十字)は、逆さ十字です。
ペテロの墓
さて、ローマ郊外にあるバチカン公国の主要部分を占めるサン・ピエトロ大聖堂(「聖ペテロの大聖堂」の意味)は、かつてのペテロの墓の上に建てられたと言われてきました。
ローマ教皇ピウス12世は、1939年、考古学者のチームにクリプタ(地下墓所)の学術的調査を依頼しました。調査チームは紀元2世紀につくられたとされるトロパイオン(ギリシャ式記念碑)や、その周囲に墓参におとずれた人々のものと思われる落書きやペテロへの願いごとが書かれているのを見つけました。さらにそのトロパイオンの中央部から丁寧に埋葬された男性の遺骨を発掘。この人物は1世紀の人物で、年齢は60歳代、堂々たる骨格で、古代において王の色とされていた紫の布で包まれていたそうです。
1968年になり、ローマ教皇パウロ6世は、この遺骨が「納得できる方法」でペテロのものであると確認できたと発表しています。そして、ローマ教皇フランシスコ1世によってこの遺骨の公開が許可され、2013年11月24日に棺が初めて公開されました。