習慣がすごい成果を出す時
続けることって何が「すごい」んだろうか?
やめてしまうことよりも「続けている」と称賛されたり、誰かに感謝されたりすごいなぁと思われたりするものだ。
その反面でやめてしまうことは「三日坊主」なんて言葉もあるくらいに新しい事を続けるのは難しい事だとされている。
でも、みんな何かしらやっているものだってあるだろうよ。
僕は小さい頃から「読書」は好まない。僕はというか一家全員がそうなのである。
全く本を読まないし、読もうともしない。何かを読んでいる姿を見た事もない。
そんな事だもんで、小説などの文字ばかりのものを読むのが非常に苦痛なのである。
「苦痛」などと言ってしまうと言い過ぎな感じではあるのだが、いくらか本を読もうと努力したのだが、全く続かない。
習慣というのは、毎日毎日努力して作るものでもあるとは思うのだが、ふと気づいた時には辞めてしまっているのだ。(ま、そんなものよね)
人間は楽な方に行こうとするし、もとの形、形態に戻ろうとする習性があるから、何も考えないでいると習慣にしようとしている事もすんなりとやらなくなってしまうのもよくわかる。そかし、僕は本を読む事に関して全く必要としていないという事なんだろうかと思えるくらいに、さらりと辞める事ができる。なんとも情けないというか、切ない気持ちになってしまうね。
しかし、習慣にしてしまったものに関しては「すごいね」などと言われる事はあるにしても、自分ではすごいだろとは思わない。
たとえば、一日に二回歯磨きをしていた人が、お昼もやった方がいいよと言われて、一日三回磨くようになったとしても特にすごいとは思ったりはしないだろう。
なるほど。みんなが同じようにやっている事に関してちょっと努力するのは大してすごいことでもないらしい。
たとえば、毎朝コーヒーを飲んでいるんだとか、食後にはお茶を飲むようにしているんだとか、そういうのはあんまりすごいなぁと思われないようだ。
僕もこの作文を一日一回書くようにしてから丸々四年ほどになる。
誰かからしたらすげーなと思うだろうし、実際に「すごいなぁ」と言われるんだけど、何にもすごいことなんかないよな。
コレによってお金が稼げるわけじゃないんだし、誰かの命を救ったりだとかになっているわけじゃないのだ。
コレをじゃあ四年ラーメン屋さんとかお寿司屋さんで休まずに働いたとしよう。
たぶんラーメンを作るノウハウはたくさん得られただろうし、もしかするとお寿司を人前で握れるくらいに上手になっていたかもしれない。
貯金をしていたら外国に行けるくらいのお金が貯っただろうし、語学を勉強したら海外の人と話せるくらいに成長していたかもしれない。
いろんないろんな可能性があったにもかかわらず、単なる自分の作文のために時間を割いたんだなって思うと、それもまた虚しいような気持ちになってしまうことだってある。
こんな作文なんかやめてしまって他のこともできたのになぁと思うのも、いやはや簡単なことなのである。
人のことを見て良いとか悪いというのも簡単なことだし、自分のことを見下したり蔑んだりすることも案外簡単なことなのだ。
頑張っている自分を毎日褒めることも、実はすごいことなんだと思うのよね。
単に続けることじゃなくって、満足してそれをやっているかどうか。それによっても大きく価値は変わってくるんじゃないかなと思った。