航西日記(19)
著:渋沢栄一・杉浦譲
訳:大江志乃夫
慶応三年二月二十二日(1867年3月27日)
晴。カイロ。
暁一時、汽車で出発。
朝十時、アレキサンドリアに着いた。
この地は古い国で、とくに首府なので、古器物の考証の素材となるものも多く、博覧会場に収められている。
みな、太古のもので、多くは土中から掘り出した棺槨の類と見受けた。
死者の飾りに用いた金具で、襟にかけるもの、または、指環、曲玉、土製の人形、素焼きの甕や瓶の類は、虫の形を彫り、印章類は、鳥の形をした篆字(篆書体の字)のようなもので、石斧、石槌、古剣など、種々の奇品がある。
この港は、地中海の要港で、貿易も繁盛し、土地も豊かで、遊戯場や妓楼などもあり、いずれも、欧州人が半分くらいである。
婦人は黒衣で首から包み、その顔は、目の間に束木を立てて、覆って外出するという土俗がある。
貴族は、常に家居深窓にあって、人に面するのを恥としている。
ただ、一夫一婦のほかに、妾を持っている。
多いのは、数十人の妾を持つという。
西洋は、東洋諸邦と違って、帝王から庶民にいたるまで、妻を一人持っているだけで、妾はない。
これは、閨門を正すことに始まって、天下に道を及ぼすという道理からなのであろう。
しかるに、この国には、妾が多いのを誇りとする風習があって、現に、トルコ帝には、四百八十人余も妾があるという。
とくに、男に嫉妬心が強くて、もし、自分の妾が、ひそかに他の男に顔を見せたりすると、すぐに、これを殺してしまうということである。
この地は、欧州に、最寄りの土地でありながら、こんな弊習を改めないのは、因習が、あまりに長くつづいて、開化の機会を失ったものといえよう。
慶応三年二月二十三日(1867年3月28日)
アレキサンドリア。
仏国総領事館から、ただちに馬車で、郵船に向かう。
時に、総領事は、兵隊を出して警衛にあたり、小艇で、本船まで送ってきた。
本船は、サイド号といい、インド洋の郵船よりも、やや小さい。
朝五時出港。
慶応三年二月二十七日(1867年4月1日)
晴。メッシナ。
暁二時に、メッシナを出港。
逆風で、船が激しく揺れる。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?