見出し画像

航西日記(28)

著:渋沢栄一・杉浦譲
訳:大江志乃夫

慶応三年四月朔日(1867年5月4日)


晴。フランス、パリ。

夜十時、大臣官邸での舞踏会ぶとうかいを見るのに御伴おともした。

これは、舞踏会を開いて親属知人を招待する、一種の儀礼的会合である。

つまり夜の茶会をもっと盛大にしたものであって、施設もすこぶ華美かびである。

そのもよおしにあたっては、あらかじめ招待状を出し、当日になると、席上には花をかざり、灯燭とうしょくを点じ、庭の篝火かがりびの設備から、食料茶酒の準備にいたるまで華美をつくし、その席につど賓客ひんきゃくは、男女ともに、みな礼服を着飾きかざり、互いに挨拶あいさつをかわし、音楽を奏し、その曲に応じて、男女それぞれ年頃の者は相手を求め、手をたずさえ肩をならべて舞踏する。

客の多少によって、何か所といわずに踊っている。

踊りには、それぞれ法則があり、少年のころから習い覚えるのであるという。

ふつうあかつきごろにいたって散会する。

これは、よしみを通じ、かんをつくし、人間交際の情誼じょうぎを厚くするだけでなく、年頃の男女が互いに顔見知りになり、言葉をかわし、賢愚けんぐをさぐり、自分で配偶はいぐうを選び求めるきっかけとなり、いわゆる春の季節が男女を取り持つという意味にあてはまり、また礼儀正しくて、みだりがましくない風俗を自然に保つものであろう。

ことに今夜は博覧会の大典たいてんによって、国内事務局の主催するものであるので、皇帝こうてい后妃こうひをはじめ、貴族高官はもちろん、都下とかの名士が集会し、各国帝王貴族その他在留の官員をことごとく招待し、万事ばんじ華麗かれいにして趣向しゅこうをつくしたことは、目を驚かすものであった。

それ以後、ところどころで、この種の催しがあり、それぞれ主催者の身分によって異同があるが、大体のおもむきはたようなものである。

英国イギリス皇太子が公使館に到着した夜の舞踏会などには、仏帝フランス皇帝后妃ともにみずから踊ったという。

身分の低い者も分相応に、あるいは茶店などを会場に借りて催す者もある。

これなどは、前述したように、自然に男女配偶を求める道にかなったものと言えよう。

仏国フランスでは、この会を「バル」といい、ちょうど本邦ほんぽうきた嵯峨さが大原おおはら岐岨きそ藪原やぶはらなどの盆踊りに似ているが、じつおおいにちがう。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集