見出し画像

神功皇后の伝承地を巡る旅、 始めます。

神功皇后の伝承地を巡る① 
ヘッダー画像は、木津川 水主の渡し碑

天皇と考えられていた 神功皇后じんぐうこうごう

 『日本書紀』全三十巻の中で、通常一巻を与えられるのは天皇だけですが、神功皇后だけは一巻が割かれています。このことからも、特別な存在であることが伺えます。和風諡号は気長足姫尊おきながたらしひめのみこと。『古事記』では息長帯比売命と表記されます。

 そのため、『扶桑略記ふそうりゃくき』(平安時代)などでは、「神功天皇」 と記され、第十五代天皇として、 治世69年を全うし、応神天皇を生んだ初の女性天皇として描かれています。 しかし、大正15年の皇統譜令で、正式な天皇からは外されました。

国史大系 扶桑略記  吉川弘文館


「神」が付く名を持つ天皇


 SNS等で、「神」が付く名を持つ天皇を特別視する記事を見かけることがあります。初代 神武じんむ天皇、第十代 崇神すじん天皇、第十五代 応神おうじん天皇、そして応神天皇の母である神功じんぐう皇后が挙げられます。漢風諡号かんぷうしごうは8世紀末に淡海三船によって一括撰進されたもので、『記紀』編纂当時にはなかったものですが、撰進した淡海三船の考えとして、歴史の重要な分岐点にあった天皇を「神」と名付けことは十分に想像できます。もっとも、SNSで語られる内容は、「王朝交代」や「◯◯から来た」などの妄想が多く、特に神功じんぐう皇后に関しては、母方の祖先が新羅しらぎの王(母 葛城高顙姫かつらぎのたかぬかひめ天日矛あめのひぼこの5世孫)と記されることから、ルーツが半島にあると主張する記事を見かけることがあります。 


日本中の多くの神社にまつられている神功皇后


 日本には八万社以上の神社があると言われています。中でも一番多いとされるのが八幡神社。その八幡神社や住吉神社で神功皇后は祀られています。皆さんも神功皇后の名前は知らなくても、ご近所や旅先で神功皇后をまつる神社に参拝されたことがあるかも知れません。

なぜ神功皇后に注目するかと言うと、神功皇后の時代が、国家の成立を考える上で大変重要な時代と考えるからです。

 私は一方で、『記紀』に記される内容を順を追って記事にしていて、そちらはまだ欠史八代の時代なんですけど、神功皇后の伝承地はとにかく数が多いですから、いずれ両方の記事の時代があうように、今から平行して書き進めて行こうと思いました。また、神功皇后の義理の父にあたる日本武尊尊についても同様で、近日書き始めます。


では早速、『日本書紀』の記述に沿って神功皇后の伝承地を巡っていきましょう。最初の記述は仲哀天皇の巻から始まります。

仲哀ちゅうあい天皇は、二年一月十一日、気長足姫尊おきながたらしひめのみことを皇后とされた。

二月六日、角鹿つぬが(福井県敦賀市)においでになった。行宮かりみやをたててお住まいになった。これを筍飯宮けひのみやという。その月に淡路の屯倉みやけを定められた。

三月十五日、天皇は南海道を巡幸された。そのとき皇后と百寮を留めおかれて、おともに従ったのは二、三の卿大夫と、官人数百とで紀伊国においでになり、徳勒津宮ところつのみや(和歌山市新在家)におられた。このとき熊襲が叛いて朝貢しなかった。そこで天皇は熊襲国を討とうとして、徳勒津を出発して、船で穴門あなと(山口県豊浦)においでになった。その日使いを角鹿に遣わされて、皇后にみことのりして、「すぐにその津から出発して穴門で会おう」といわれた。

夏六月十日、天皇は豊浦津とゆらのつに泊られた。皇后は角鹿を出発されて、渟田門ぬたのみなとに至り、船上お食事をされた。そのとき鯛がたくさん船のそばに集まった。皇后が鯛に酒をそそがれると、鯛は酒に酔って浮かんだ。そのとき漁人は沢山その魚を得て、よろこんでいった。「聖王(神功皇后)のくださった魚だ」と。そこの魚は六月になると、いつも浮き上って口をパクパクさせ酔ったようになる。それはこれがもとである。

秋七月五日、皇后は豊浦津に泊られた。この日皇后は加意の珠を海から拾われた。

全現代語訳日本書紀 宇治谷孟

 角鹿つぬが(敦賀)に関しては、以前、オススメの社寺で気比神宮と常宮神社のことを書いていますので、そちらをご覧いただければと思います。

 今回は、角鹿つぬがから豊浦とゆらまでの行程について考えてみたいと思います。仲哀天皇は、角鹿からわずかの供の者を従えて紀伊へ行幸しているときに熊襲くまその叛乱を聞き、直接豊浦へ向かったと記されます。ただ、紀伊の徳勒津宮ところつのみやという場所は、大和朝廷の軍港であったとも言われるところですので、熊襲の謀叛を知って紀伊へ向かったというのが本当のところかも知れません。

 一方の角鹿つぬが行宮かりみやにいた皇后は、仲哀天皇のみことのりによって「百寮ももつかさ(多くの役人)」と共に角鹿を発ち、出発から約一ヶ月後に豊浦津とゆらのつに到着したことになります。

 一般的には、日本海を進み豊浦へ向かったと考えられているのですが、エピソードにある浮鯛の話が、広島で実際にそうした現象がみられて、過去には漁もされていたということですので、実は、一旦大和へ戻って、摂津の港から船で瀬戸内海を進んだのではないかと私は考えているのです。 

 伝承を繋げてその行程を想像してみましょう。

 角鹿から琵琶湖の北岸の港(塩津港か?)までは約30キロ。琵琶湖の北部は神功皇后の出身氏族 息長氏おきながうじの本拠がありますから、塩津港を出て父 息長宿禰王のもと(米原市)にも立ち寄ったかも知れません。そして琵琶湖を船で南へ。そのまま瀬田川(宇治川)を下って、当時あった小椋池へ。小椋池から木津川を遡って大和を目指します。途中、水主の渡しの辺りで下船し、今度は陸を行きます。※ここまでは私の妄想です。

この先に伝承地が点在します。

水主の渡し

水主の渡しの碑がある対岸に水主神社があります。水主神社は以前の記事で紹介していますので、よろしければそちらもご覧ください。



鉾立ほこたての松 
京田辺市興戸北鉾立

府道八幡木津線に沿って伝承地があります。最初は京田辺市役所東交差点南西角にある「鉾立の松」。


不違の池たがわずのいけ 
京田辺市興戸若宮一番地の一

次は鉾立の松から南へ約300m行ったところにある「不違の池」。

 


鉾立ほこたて之杉
 
京田辺市三山本垣ノ内53番地の2
次に「鉾立之杉」。JR学研都市線 同志社前駅のすぐ近くにあります。

三代目大きくなれよー


酒屋さかや神社 
京田辺市興戸宮前100番地
式内社ですが、『特選神名牒』を読むと、御祭神に関してはいろいろ変遷があるようですが、本題ではないので今回はスルーします。

朱智しゅち神社  
京田辺市天王高ヶ峯25

大阪府交野市に、神功皇后が三韓征伐に向かう際、祖父の迦邇米雷王かにめいかづちのみこに暇乞いに立ち寄られたという伝承があります。こちらの朱智神社は、その迦邇米雷王かにめいかづちのみこを祀る神社ですが、創建が仁徳天皇の御代とありますので、神社に立ち寄られたということではなさそうです。

 ここで神功皇后の系譜を簡単に書いておきます。

第九代 開化かいか天皇―(子)彦坐王ひこいますのみこ―(孫)山代之大筒木眞若王やましろのおおつつきまわかのみこ―(曾孫)迦邇米雷王かにめいかづちのみこ―(玄孫)息長宿禰王おきながのすくねのみこ―神功皇后―応神天皇―仁徳天皇…。  神功皇后は開化天皇の来孫らいそん(5世孫)で、仁徳天皇の祖母ということになりますね。

神社まで車で行けますが、道が狭く、運転に自信の無い方はやめておいたほうが良いと思います。


|磐船神社   
大阪府交野市

迦邇米雷王に暇乞いに立ち寄られたとき、磐船神社の傍で昼食をとられた。その時食べた梅の種が捨てられたものが立派に育った。(交野市の梅の木伝説 )

府民の森ほしだ園地駐車場と磐船神社の間にあります。ここに梅の木伝説の説明板があるのてすが、草が生い茂って入ることができませんでした😢

磐船神社は、以前ニギハヤヒの伝承地で記事を書きました。よろしければそちらもご覧ください。


暗峠くらがりとうげ


 神功皇后 が三韓征伐にむかわれたとき、朝の鶏の声を合図に出発することになっていた。ところが鶏は鳴いたが、あまりに早過ぎていくら行っても夜が明けず、とうとう峠の頂きまで登ってもまだ暗かったので くらがり峠という名がついた(生駒の伝承)

 生駒地方一帯は、鷄を飼わない。飼えばその家に災厄がある。下流の龍田ではたくさん飼う。これは、昔、生駒の氏神の神功皇后が、三韓征伐にいかれる時、早く起きようと思っておられたのに、時を歌う鷄が朝寝をして、役に立たなかったので、皇后は怒って鷄を生駒川に流され、龍田の宮さんが、これを拾い上げられたからだという(生駒町奥菜畑地方の伝承)

峠の奈良側。こちらはそうでもないですが、大阪側は、酷道(国道308号線)とよばれるだけのことはあります。朱智神社まで運転できる人なら、たいしたことはないとおもいますけど(笑)



ここまでの伝承地を地図に落としてみると、

こんな感じです。角鹿から大阪湾に出るとしたら、木津川ではなく淀川を下るほうが早いのですが、このルートのポイントは、父 息長宿禰王と祖父 迦邇米雷王ゆかりの地を経由したことです。暇乞いの挨拶の為だったのか、他に理由があったのかはわかりませんが、興味深いルートだと思いませんか?

 角鹿(敦賀)から大阪湾に出るまで、陸行水行10日くらいでしょうか。大阪湾から山口県下関の港まで、風待ち潮待ちとかもあると思いますけど、瀬戸内海を船で20日間。。都合1ヶ月でなんとか行けますかね? ちなみに神武東征を再現して1940年4月、宮崎県の美々津港から大阪まで、全長21m、二人漕ぎの櫓24挺と帆を備えた「おきよ丸」が12日間で航行した記録があります。


最後までお読みいただきありがとうございました。次回は豊浦へ向います。

いいなと思ったら応援しよう!