第6話 難波碕の巻
神武東征の旅 第6話 難波碕の巻
その時の様子を、
と記します。
「古事記」は浪速国の由来について記述はありません。
到着したのが草香村の白肩之津。〝青雲の白肩津〟と瑞祥表現が使われているので、ピンポイントでここという場所はわかりませんが、「津」は港。草香村は古くからの地名で現在の東大阪市日下町あたりです。
上の地図を見ていただくとわかりますが、赤丸の場所(東大阪市日下町)までもちろん今は船で行くことはできません。
縄文海進で海面が上昇し、縄文時代、大阪は上町台地が半島のように突き出ているだけで大半が河内湾と呼ばれる海でした。
時は流れて、淀川や大和川が運んてくる土砂の堆積によって、やがて河内潟と呼ばれる時代になります。
上町台地が土砂の堆積で徐々に北へ伸び、やがて河内潟は淡水の河内湖になります。
注目すべきは日本書紀が記す「難波碕に着かれるころ潮の非常に速いのに出会った」あるいは「まさに難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた」という個所です。上の図の河内潟の時代なら潮の干満のタイミングを見計らって難波碕をスイスイ通過できたわけです。
河内潟が淡水の河内湖になるのは今からおおよそ2000年前。淡水湖になった後は日本書紀の記す現象に遭遇することは出来ません。
地質調査や遺跡の発掘で詳しく知ることができるようになったのは昭和以降です。
日本書紀に語源が書いてあるのに、 明治時代に、難波の語源を、大阪湾には浪の速いところはなく、古代に魚・菜など食物全般を「な」と呼んでいて大阪湾は魚(な)がたくさん獲れるから、魚(な)の庭で「なにわ」と呼ばれるようになったのであろうという説が唱えられます。
ありがたい事に今の私たちは、かつて大阪に「ザーザーうねる波を表す文字〝浪〟」がおこる地形が存在したことを知ることができます。
河内潟の出口がふさがって河内湖になった後、大和川の水は出口を失い河川が度々氾濫します。そうした状況を憂い、仁徳天皇の御代に難波の堀江を切り開いて水の出口がつくられました。5世紀はじめの事です。その結果干拓地が広がり今の大阪平野ができました。
日本書紀が編纂されたのは8世紀はじめ。その頃には河内湖もほぼ姿を消していたようです。なのになぜ日本書紀の編纂者は難波碕の速い潮流を知っていたのでしょう? 編纂時から700年以上前の現象を描けると言うことは、そこには何らかの伝承や記録があったと考えるのが自然だと思いませんか?
〝記紀〟の古代記述の信憑性を問うとき、初期天皇の異様に長い寿命や事績の少ない欠史八代、それと神武天皇橿原宮即位紀元前660年に対する疑義があると思います。私も即位年については懐疑的です。「青雲の白肩之津」が瑞祥表現であるように、辛酉の年に天命が革るという中国の辛酉革命思想と符合させ、記紀編纂当時に正確な記録が残る推古天皇9年の辛酉の年から逆算して導き出されたという説を支持するからです。
しかし年数に作為があるからといって出来事がすべて絵空事だとは思っていません。今回の難波碕の潮流もその一例です。一つ一つ丁寧に見ていけば、自ずと見えてくるものがあるんじゃないかと思っているんですよね。
次回は孔舎衛坂の戦いです。お楽しみに〜!
【参考】
今回登場した「難波碕」。大阪に馴染みの薄い方は〝難波〟と読むんじゃないの? と思われた方がいるかもしれません。インバウンドで賑わう大阪ミナミの繁華街は、そう「なんば」です。ややこしいですけど、道頓堀などミナミの繁華街がある場所の地名が「なんば」で、大阪全体として〝難波〟という漢字を使う場合は「なにわ」と読みます。なので今回書いた「難波碕」も、今のミナミの繁華街あたりにあったわけではありません(笑)。 それと「浪速」も「浪花」も今は「なにわ」と読みます。実際にある「大阪市浪速区」とか、むかし「浪花恋しぐれ」という歌もありました。
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