牛窓伝説
神功皇后の伝承地を巡る旅 ④ 吉備編
岡山県の神功皇后の(往路)伝承地は、岡山市・倉敷市・玉島市などにありますが、未見のものもあるので、今回は一番有名な瀬戸内市牛窓の伝承を紹介したいと思います。
牛窓神社
五香宮
元は住吉宮でしたが、江戸時代寛文7年(1667)、藩主池田光政公の命により、京都の御香宮から神功皇后と応神天皇の神霊を勧請し、五香宮と改称したそうです。
五香宮の古記録に関しては、下記サイトに記されています。
牛窓伝説
(※私の意訳です)
【往路】
仲哀天皇が神功皇后と共に熊襲討伐へむかう途中、休息のため当地に立ち寄ろうとしたとき、頭が八つの怪物が現れ襲いかかった。この怪物は塵輪鬼と呼ばれ、熊襲に加担した新羅の王子 唐琴に操られていた。
仲哀天皇は塵輪鬼を矢で打ち抜き仕留めたが、自らも負傷し崩御された。射抜かれた塵輪鬼は、首と胴体の二つに分かれ、頭が鬼島(黄島)、胴が塵輪島(前島)、尾が尾島(青島)となった。
塵輪鬼を操っていた唐琴は、神功皇后に見つかり討ち取られた。以来、唐琴が討ち取られた場所は「唐琴の迫門(瀬戸)」と呼ばれるようになったという。
【帰路】
神功皇后は、帰路ふたたびこの地に立ち寄ったところ、塵輪鬼の遺恨が牛鬼となって船を覆そうとした。すると住吉の明神が老翁の姿となって現れ、その牛を投げ倒した。倒れた牛鬼の亡骸は骸島(黒島)、はらわたが百尋岨(百尋礁)となり、それ以来この地は「牛転」と呼ばれるようになった。それが訛って「牛窓」と言う。
塵輪について
塵輪は、牛窓だけではなく、石見神楽や山口県下関市の忌宮神社の伝承でも知られています。
石見神楽
「塵輪」は、石見神楽の人気の演目の一つで、帯中日子天皇(仲哀天皇)が異国より日本に攻めくる数万騎の軍勢を迎え撃ちます。その中に塵輪という身に翼を持ち黒雲に乗って飛びまわる悪鬼がいると聞き、天鹿児弓・天羽々矢を持ち高麻呂を従えて討伐に向かい、激闘の末に退治するというストーリーです。
忌宮神社 数方庭祭
忌宮神社は、仲哀天皇が熊襲征伐の際に営んだ穴門豊浦宮の伝承地です。※豊浦宮は次回書きます。
忌宮神社境内には、豊浦宮へ攻め寄せた武将・塵輪を射殺し、その首を埋めたとされる「鬼石」があります。塵輪の顔が鬼のようであったことに由来するとのこと。毎年8月7日から13 日まで毎夜鬼石を中心とする広庭で奇祭「数方庭」が行われています。
各地の塵輪伝説に共通することは、【異国が攻めてきて、仲哀天皇が塵輪を討伐した】ことです。
『古事記』『日本書紀』はもちろん、朝鮮の歴史書『三国史記』や、李氏朝鮮の知識人でハングル制定にも寄与した申叔舟が記した『海東諸国紀』「日本国紀」の仲哀天皇条にもそのようなことは記されていません。
では何がベースとなっているかというと、鎌倉時代後期に成立した『八幡愚童訓』ではないかと思います。八幡神の霊験、神徳を説いた縁起物です。元寇(1274/1281年)について書かれていることで知られていますね。
塵輪伝説の「異国が攻めてきた」は元寇がモチーフで、それに神功皇后の伝承、そして岡山であれば、桃太郎に登場する鬼「温羅」などの伝承がミックスして創られたものではないかと想像します。
ついでに書きますが、『海東諸国紀』「日本国紀」には、
とあります。『記紀』が記す「神功皇后の三韓征伐」に対して、百済が仲哀天皇に、新羅が神功皇后に、高麗が応神天皇に「使を遣わして来る」と訳されます。小中華思想の李氏朝鮮(小華を自称している)の文献ですから目上の者が目下に対して「使を遣わす」という表現は当然そうなるとして、それは置いておいて、「仲哀天皇に百済が使を遣わす」は『記紀』には無い記述なので興味深いです。
そのことを「塵輪伝説」に当てはめて妄想してみると、高麗・新羅・百済の三国の関係が緊迫する中で、百済が日本と手を結んだ。それに危機感を覚えた新羅は仲哀天皇の暗殺を企て刺客を送った。刺客は◯されたが、仲哀天皇も深手を負ってやがて崩御された。そして神功皇后が仇を討つために新羅へ攻め入り、みごと新羅を征討した。『記紀』は天皇が賊徒に討たれたことを良しとせず、仲哀天皇は神の怒りをかって崩御されたと記す。
新説ができました(笑)
話を「牛窓」に戻します。
神功皇后腰掛之岩
朝鮮通信使と唐子踊
唐子踊は、疫神社(素戔嗚神社)の秋祭りに奉納される稚児舞で、神功皇后が新羅からの帰路牛窓に立ち寄られた際、朝鮮から連れてきた童子に踊らせたのがその始まりとされます。
が、はたしてそれはどうでしょう。。
牛窓は朝鮮通信使の寄港地(12回中9回寄港)として知られ、毎年11月に行われる「瀬戸内牛窓国際交流フェスタ」のメインイベントでは朝鮮通信使行列が再現されるなど、江戸時代から朝鮮半島と交流のある地域ですので、おそらくはその朝鮮通信使を起源として始まったものではないかと思います。
朝鮮通信使
江戸時代、徳川将軍の代替わりに際し、祝賀の目的で李氏朝鮮王朝から国書を持って来日し、将軍から返書を持ち帰った使者の事をいいます。
まとめ
牛窓神社は、「土地の神霊・祖先の神霊を祀っていたが、長和年間(1012−1017)に教円大徳によって豊前(大分県)の宇佐八幡宮から応神天皇・神功皇后・武内宿禰・比賣大神の御神霊をお迎えして牛窓八幡宮となった」(岡山県神社庁HP)とあります。また、保元3年(1158年)の石清水八幡宮の記録に「牛窓別宮」が見え、中世当地は石清水八幡宮領であったと考えられます。
なぜ牛窓に八幡神が勧請されたか? 当地は古くから風待ち、潮待ちの港として栄えていましたので、神功皇后が立ち寄ったという伝承は古い時代からあったものだと思います。
加えて、牛窓の北、岡山県和気町には、和気神社があります。此地は和気氏発祥の地で、「宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)」で活躍した和気清麻呂の生誕地とされています。そうしたことも関連して、八幡神と大変由縁のある地と考えられたのでしょう。
八幡信仰や五香宮(住吉宮)の住吉信仰とともに語り継がれ、近世になって朝鮮通信使の伝承が加わって今日に至るのではないかと私は想像します。
おまけ
どのような映画かは知りませんが、牛窓神社や五香宮にポスターが掲示されていたのでご紹介します。
最後までお読みいただきありがとうございます。次回は、浮鯛伝説と穴門豊浦宮です。