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奈良盆地と国家の始まり

欠史八代 第十話 第七代 孝霊天皇 ②


 今回は少し違った角度から「欠史八代」を考えてみたいと思います。『古事記』と『日本書紀』本文に記される欠史八代天皇の皇后・妃、皇子、皇女の数を数えてみました。それぞれの皇子を見ると、一柱は次の天皇になられた方ですので、全26柱から8柱を引いて18柱。今回はその十八柱の皇子の封ぜられた地方、その皇子を祖とする氏族が本拠とする地域について考えてみたいと思います。

  天皇     后妃   皇子        皇女
② 綏靖天皇   1         1(1)
③ 安寧天皇   1         3(2)
④ 懿徳天皇   1         2(1)
⑤ 孝昭天皇   1         2(2)
⑥ 孝安天皇   1         2(1)
⑦ 孝霊天皇   3         5(4)    3(2)
⑧ 孝元天皇   3         7(4)    2(1)
⑨ 開化天皇   3         4(3)    1(0)  
『古事記』に記される数。( )内は『日本書紀』本文の数。

 系譜に興味の無い方にはわかりにくい話だと思うので、今回は詳細は端折はしょってサクサク話しを進めます。以下『古事記』をベースに書きますが、皇子の名は他の記事との整合性から『日本書紀』の表記に準じます。


欠史八代天皇とその子孫

1 安寧あんねい天皇

 第三代安寧天皇には 磯城津彦命しきつひこのみことという皇子がいました。磯城津彦命には二人の子がいて、兄の方の子孫は現在の三重県伊賀市・名張市周辺で稲置という官職についたと記されます。一方、弟のほうは淡路島に宮をかまえます。弟は和知都美命わちつみのみことと言い、娘二人が第七代孝霊天皇の妃となります。
和知都美命は安寧天皇の孫にあたりますので、第五代孝昭天皇と同世代ということになります。


稲置いなきとは
古代、大和朝廷の地方官職名で屯倉みやけの長官。稲穀の収納を職務としたとされます。




2 懿徳いとく天皇


 第四代懿徳天皇の皇子、多芸志日古命たぎしひこのみことの子孫は、大阪府泉南地域(血沼別ちぬのわけ)、兵庫県北部 豊岡市周辺(多遅麻たじま竹別たけのわけ葦井あしい稲置)に封ぜられたと記されます。


別(わけ)とは
古代のかばねの一つ。皇族の子孫で地方に封ぜられた者が地名に冠して用いたとされます。



3 孝昭こうしょう天皇


 第五代孝昭天皇の皇子天足彦国押人命あまたらしひこくにおしひとのみことは、『古事記』に16氏族の始祖と記されます。和珥氏わにうじから別れる諸氏、関連する氏族です。それぞれの本拠は、奈良・京都の他、愛知県一宮市・知多郡、三重県津市・松阪市、丹波篠山市、滋賀県米原市、千葉県山武市などと考えられます。

1で書いた事柄は安寧天皇の孫世代のことですから、二世代ずらしてこちらに地図を載せます。三重県名張市・伊賀市、兵庫県淡路市にマークしました。



4 孝安こうあん天皇


 第六代孝安天皇の皇子、大吉備諸進命おおきびのもろすすみのみことは、『日本書紀』には記載が無く、『古事記』も名前を記すのみです。〝吉備〟とつくことから、吉備地方に関わりがあるとは思うのですが、残念ながら手がかりがありません。

こちらも二世代ずらしで、2で書いた大阪府泉南市と兵庫県豊岡市を加えました。


5 孝霊こうれい天皇


 第七代孝霊天皇の皇子で一番有名なのは、彦五十狭芹彦命ひこいさせりひこのみこと、別名 大吉備津彦命おおきびつひこのみことです。『古事記』は、異母弟の稚武彦命わかたけひこのみことと共に吉備(岡山県・広島県東部)を平定したと記します。また、彦狭嶋命ひこさしまのみことは播磨(兵庫県西部)にとどまったのでしょうか。針間牛鹿臣はりまのうしかのおみの祖とされます。

そしてもう一柱、『古事記』に記される日子刺肩別命ひこさしかたわけのみこと。大吉備津彦命の同母兄で、倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめの弟です。この方は富山県砺波市(越 の利波となみ臣)、大分県(豊国とよのくに国前臣くにさきのおみ)、静岡県(五百原いおはら(廬原 )臣※『新撰姓氏録』では稚武彦命の後裔)、福井県敦賀市(角鹿つぬが海直あまのあたい)らの祖先と記されます。

3で書いた地域を加えました。2世代ずらして地図を載せてきましたが、「子孫が」ですから、必ずしも2世代ずらした時代とはかぎりません。また、マークした地域は「大和朝廷が平定した」という地域ではありません(『記紀』は平定したとは書いていません)ので、あくまで漠然としたイメージでとらえてください。


 さらに5で書いた孝霊天皇の皇子に関連するマークを加えると下図のようになります。

『古事記』は第七代孝霊天皇の段で吉備津彦と稚武彦命が、『日本書紀』は第十代崇神天皇の巻で四道将軍として派遣された五十狭芹彦命が異賊を平定したと記します。いずれにしても「○○を平定した」という表現はそれらが最初です。

このあと、第八代孝元天皇第九代開化天皇の皇子を祖とする氏族の分布を加えるともっとエリアが広がりマークも密になりますが、それは次回以降に。


「欠史八代天皇」ですが、最小限記されている「帝紀」(天皇や皇族の系譜)を丁寧に見ていけば(と言いながら、かなり雑ですが)、何か見えてくるんじゃないかと思って、歴代皇子を始祖とする氏族の分布を地図で表してみましたが、いかがだったでしょうか?

 まぁ、毎度同じような事を言っていますけど、歴史とは〝昨日があり、今日があり、そして明日がある〟そのような見方をする必要があると思うんですよね。


奈良盆地と国家の始まり


 「欠史八代」は弥生時代のことです。『魏志倭人伝』によるとまだ日本には牛や馬はいなかったようです。また、弥生時代は「鉄」が社会を変えたと言われています。確かに農工具においてはそのよう言えると思いますが、「武器」に関してはどうだったでしょう?。各地の博物館に行って出土した遺物をご覧になってみてください。古墳時代以前の武器として用いられる鉄製品は、主にやじり(矢じり)などの小型のものが多かったようです。

 青銅に比べ鉄のほうが硬度が高く耐久性がありますが、なにせまだ入手困難で貴重な素材ですから、弥生時代の矢じりは青銅と鉄と石が並行して使われていたようです。それよりも弓や弦を改良すると、射程距離・正確性の向上など、兵器としての性能UPをはかれると思いますので、矢じりの素材よりもそうした技術革新が主ではなかったかと想像します。まぁ、いずれにしても、馬も居ない、兵士は鉄刀を持たない……、ゲーム・アニメ、映画で見る「三国志」、「キングダム」などの戦闘シーンとはかなり違うイメージだったと思いますね 。

 四方を海に囲まれ、大小無数の川のある日本で、しかも牛や馬が居ないわけですから、敵地に遠征するのも、荷物(武器や食料)を運ぶのも、陸路ではなく主に舟が使われたはずです。舟を操る海人族と呼ばれる人々が重要な役割を果たし、力を持っていたと思います。

 ところが不思議なのは、その力を持つ海人族、或いは大陸や半島との通交を重視する人々なら、おそらく選ばなかったであろう土地。大陸との往来には離れていますし、海もありません。現在でもちょっと交通が不便で、観光客が日中、鹿と大仏の写真撮りに訪れても、宿泊は利便性の高い京都や大阪にするという旅行客が少なくない奈良です。

 その奈良盆地を四方を山に囲まれた美しい土地と言って、都を築き日本を統一しようとした勢力がいたわけですよ。3世紀の中頃には纏向という都を整備し、他の地方にも異国にも無いオリジナルの墳墓(前方後円墳)をつくって、それを全国に広めていきました。国家という言葉の定義には当てはまりませんが、同じ葬送祭祀を、同じ思想を各地に普及させていったわけです。それが日本という国の始まりであったことは疑う余地がありません。



古代史へのアプローチ


 私は、『古事記』『日本書紀』を肯定的に受け止め、遺跡や遺物、古墳などと照らし合わせ、想像力を働かることで、古代の姿をある程度復元することができると思っています。


「証明できないから神話であって歴史ではない?」

→証明が困難だからこそ、神話と歴史の間を橋渡しするように考察することが重要だと思うのです。


「歴史は勝者によってつくられる(・・だから真実では無い)?」

→逆にどこかの国に、敗者が作った国史、名も無い庶民が書いた正史があるなら教えてください(笑)。 勝者によって描かれる記録を否定するのではなく、そこから何を学びとるかが重要だと思います。


「年代が合わない・ズレてるから信用できない?」

→受験の歴史じゃないから、ズレてても不正解ではないです。「昨日があり、今日があり、そして明日がある」歴史を連続性の中でとらえていきましょう。



最後までお読みいただきありがとうございました。










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