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九段理江「東京都同情塔」 書評

読書を習慣としてうけいれてからしばらくして、世に言う傑作というものにそこそこ触れ始めたくらいのとき、本という媒体がわたし(読者)にとっててにとるたびに新鮮な感覚と、あたらしいく、ささいであり、おおきな発見をくれるようになる、そんな時期がある。

「東京都同情塔」を読んだときは、ひさしぶりにそんな感覚を思い出した。本作は一つまえの芥川受賞作である。たまたまそのときの候補作をそれなりに読んでいたが、この「東京都同情塔」だけ読まないでいた。とくに理由はない。そうとうな接戦だったろうとおもっていたそのときの芥川賞は、しかし本作を読んだあとではこの「東京都同情塔」と競争することになった候補作たちには同情してしまう。

そのまた一つまえの受賞作「ハンチバック」では身体障碍者である著者本人の悲痛な訴えが作中にえがかれており、受賞スピーチも反響をよんだ。この「東京都同情塔」もAIの生成した文章を作中にとりいれていると、受賞スピーチで著者が「暴露」し、これもまた話題になった。ChatGPTと、その性能が世に出て、あっという間に普及したつかぬ間の出来事だったから、当然ネットニュースなどでも、生成AIの文章がとりいれられた小説が芥川賞をとったぞ!などと勘違いを引き起こすような見出しがおおく上がっていた。
本作においてはAI-builtなる技術が登場する。この技術は質問者がテキストを入力するとそのテキストにたいしてAI-builtが適切な返答をするというChatGPTにそっくりな技術だが、このAIと作中人物の会話などでおそらくAIは利用されたのだろう。

魔術師のような建築家たち

バベルの塔の再現。シンパシータワートーキョーの建設はやがて我々の言葉を乱し、世界をばらばらにする。ただしこの混乱は、建築技術の進歩によって傲慢になった人間が天に近づこうとして、神の怒りに触れたせいじゃない。各々の勝手な感性で言葉を濫用し、捏造し、拡大し、排除した、その当然の帰結として、互いの言っていることがわからなくなる。喋った先から言葉はすべて、他人には理解不能な独り言になる。独り言が世界を席巻する。大独り言時代の到来。

もちろん「旧約聖書」のバベルの塔をモチーフとした一節だが、本作には大きなテーマとして「建築」と「言語」が並置されている。シンパシータワートーキョー、東京都同情塔(以下、塔)は「ホモ・ミゼラビリス」という作中独自の概念のもとによってつくられた建築物である。
「ホモ・ミゼラビリス」、憐れまれるべき人々とよばれるのは、ほんらいなら「犯罪者」とよばれるべき人々である。つまり、本来ならば蔑まれるべき人々なのである。

本作の特徴としてたびたびこうした「逆転」がおこる。この「ホモ・ミゼラビリス」もその一つだ。たとえばフーコーの提示した「パノプティコン」を思い出してほしい。「塔」はまさしくこの「パノプティコン」の「逆転」した形をとっている。囚人のいるべき場所に刑務官がいて、刑務官がいるべき場所に囚人がいる。

本作において建築という概念は文中にしばしば登場する、しかし、重要な部分は書かれていない。建築について、マキナサラ、彼女をはじめとする建築家たちの意見表明がおこなわれるだけだ。そうではない、本作のもっともおおきな主題である「塔」は、新規概念のもとにつくられたモニュメントであると同時に、新規概念をささえる基盤となっている。モニュメントは、イデオロギーをけん引するものである。大都会の中心部にそびえたつ巨大建築物は当然膨大な人々の目に留まり、その特異的な存在を目に焼き付ける。たとえば通勤中にこの「塔」がみえれば、かれらは毎日嫌でもその相貌をおがむことになる。また、外国人観光客の観光スポットになり、周辺住民は朝起きれば窓のそとに「塔」がそびえていることになるだろう。作中でくわしく説明されてはいないが、こうしたことは容易にそうぞうがつく。

「塔」の「バベルの塔の再現」というたとえにはしっくりくるところとそうでないところがある。
注目するべきところは、「建築物」にたいして、人の立っている「ポジション」である。それは「バベルの塔」にしたって、「パノプティコン」にしたってそうだが、「ポジション」が固定しているものは「視線のベクトル」である。たとえば、パノプティコンの場合、囚人から刑務官への視線、刑務官から囚人への視線の双方向がある。また、「パノプティコン」において刑務官にたいしての影響はむしされているが、囚人にあたえる影響はぜつだいである。
「塔」でもおなじく監視塔のポジションにあたる「塔」自体におよぼされる影響は無視されている。そしてまた「塔」は囚人のポジションに立つ民衆たちに絶大な影響をおよぼす。「バベルの塔」とちがうところはそこにある。つまり、「破壊」が神という上からの一方的な「破壊」ではなく、「塔」があたえるものは、視線のベクトルの双方向性であり、それによって「破壊」がおこることにある。

塔はすでに、東京の真ん中に隠しようもなく建築されている。けれど僕にとってその建築は、どうみたって破壊にしか見えない。ミサイルや爆弾が投下されたのと何ら変わらない、取り返しのつかない破壊。破壊はまるで、どこかの競技場のようにとても美しい姿をしているものだから、今後たくさんの人々が「創造」と呼んだり、「希望」と呼んだり「平等のシンボル」と呼んだりしていくのだと思う。多様性を認め合いながら共生するのは、とても素晴らしいことに違いない。けれどそのとき僕の目に映ったのは、見間違えようのないくらいの、どのような異論もみとめられないほどの、圧倒的な破壊だった。

つまり、作中人物のおちいる言語の混乱はこの「概念をささえるモニュメントの視覚的な抑圧」によってなされるのである。

すなわち、極端に戯画化されてはいるものの、本作の提示する「空間」の定義は、われわれの住む現実世界のありうる一つの可能性を提示している。もしくは、まったく荒唐無稽なフィクションではなく、われわれの現実世界と本作は共通した一つの軸のもとになりたっているのである。

本作がSFという一つのジャンルにとらわれないのは、東京オリンピックや、ChatGPT、ジャニーズ事務所のスキャンダルなど、タイムリーな要素をもりこみ、「日本人のつかう言語」を語る一種のジャーナリズムにあるだろうか。「ハンチバック」はラディカルであるものの単純な世間的なマイノリティからの告発だった。本作では「言語」「建築」という固定された視点からばくぜんとしている世間的なマジョリティの存在をむきだしにする。

作中に登場する「アウトサイダー」マックス

日本に記事を寄せているアメリカ人ジャーナリストのマックスは作中人物を、かれ自身、日本人という枠にあてはめ、自身と分断する、「アウトサイダー」として登場する。

ここは、かわいそうな人にドージョーをギブするためだけのタワーじゃない。何か不都合な事実が別にあるはずだ。世間でうわさされていることを、君も少しは目にしているだろう。中には、税金を使ってでも社会のお荷物を合法的にとじこめて、『劣等』な遺伝子を長期的安楽死に追いやるための施設だという、SFめいた陰謀論もある

マックスは作中における「アウトサイダー」というだけでなく、作中において読者と接続し、世界観をせつめいする触覚としての役割をはたしている。引用部分においても、あくまでわたし個人だが、ここではじめて「塔」にたいしての納得のいく意見があらわれる。「塔」によって変質させられた日本人たちとはちがい、比較的読者と近い感覚の持ち主のようだ。

「ファッキン・テキスト?私の中の拓人君は、そんな汚い言葉を使う子じゃないはずなんだけれど」
「マックスの口癖が映った、すごい感染力。彼はほとんど公害、病原菌だよ」
「君が清潔すぎるのよ」拓人の体にしみこむ、清潔な石鹸の香りを思い出して私は言う。

この部分のテキストは作中においてごくささいなものであるが、作品内の構造にはたらきかける仕組みをわかりやすく開示してくれる。
作中に通底する「言語」「建築」の二大要素だが、それらの要素をささえているのは人間の身体感覚である。タクトはあくまでもこの「ファック」という言葉にたいしてその語の意味を解明し、興味深いからつかっているわけではない。ただ気持ちがいいから使う。麻薬中毒者から麻薬をすすめられ吸っているようなこと。人間、日本人の身体感覚のなかで「ファック」という語に由来する快楽、また意味の消失。それから「ホモ・ミゼラビリス」という語、意味を押し付けられる不快感。

言語、建築という理論的な概念に根差した世界観を構築しつつ、しかしごく身近な、身体的なものがそのメカニズムを動かす動力となっている。作中における著者のスタンスである。


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