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#242_コップに入った泥水が静かになって透き通るのを、われわれは急ぐことができません。意志がコントロール出来るスイッチもダイアルもありません。

随意運動と不随意運動という概念を使うとすれば、四肢や表情の動きは随意運動になります。内臓の動きは不随意運動。

意識の動きは不随意運動であるという発見は、瞑想の入り口にある気づきのひとつです。

なにを考えるかをわれわれは選んでいるように感じていて、ある程度それが可能だという感覚がありますが、考えるのを始めたりやめたりというスイッチを操作できないことは、素朴な経験からもイメージすることができます。

われわれにできることは、身体の外部からの刺激や情報や、身体の内部にある刺激や情報を知覚していたいという欲求を手離して、コップに入った泥水のように、静かになって透き通るのを待つことです。

コップに入った泥水が静かになって透き通るのを、われわれは急ぐことができません。意志がコントロール出来るスイッチもダイアルもありません。

どういうふうにやろう、うまくやろう、なにかを達成しよう、という心の動きをやめて、ものごころがついてからずっと身体や意識に与えていた意味や名前がゆっくり離れて、そうして現れる世界とただ向き合います。

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