『「介護時間」の光景』(187)。「網棚」。12.25。
いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。
(※この「介護時間の光景」シリーズを、いつも読んでくださっている方は、よろしければ、「2001年12月25日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
「介護時間」の光景
この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。
それは、とても個人的で、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。
今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2001年12月25日」のことです。終盤に、今日「2023年12月25日」のことを書いています。
(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています。希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。
2001年の頃
個人的で、しかも昔の話ですが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。
仕事もやめ、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。
入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。
だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。
それに、この療養型の病院に来る前、それまで母親が長年通っていた病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。
ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。私自身は、2000年の夏に心臓の発作を起こし、「過労死一歩手前。今度、無理すると死にますよ」と医師に言われていました。そのせいか、1年が経つころでも、時々、めまいに襲われていました。それが2001年の頃でした。
周りのことは見えていなかったと思いますが、それでも、毎日の、身の回りの些細なことを、メモしていました。
2001年12月25日。
『自分の心臓の病気のために病院へ行く。
CTスキャンも受けたけれど、頭が少し熱くなっているような気がした。
白くて回っていて、「2001年宇宙の旅」をやっぱり思い出した。
心電図もとって、何の異常もなかった。
血液検査もして、その結果がまだだから、本当に異常がないかどうかは分からないものの、それほど緊迫感もないので、大丈夫らしい。
「もし、心臓細動の発作が止まらなくなったら、救急で来てください」と言われ、来年は、転院しようと思った。この病院で発作が起こるまで追い込まれたような状況だったし、ここに来るのに、微妙な恐怖心もあるから、今度は、母の病院のそばのところにしようと考えていた。
午後3時30分頃に母の入院する病院に着いて、入り口の公衆電話で家に電話をかける。妻がちょっと元気がないみたいだったけれど、それでも昨日はクリスマスイブということもあって、一緒に病院に来てくれたと思い出して、しみじみして、お礼を言った。
4階の病棟へ上がる。
カギを開けて、入って、今日は患者さんは、みんなで集まって作業をする日だけど、その場所に母はいなかった。
だけど、病室へ行ったら、そこそこ元気そうで、よかった。
年賀状が書きたい、と言っていたので、いろいろと準備していったのだけど、どう書けばいいのか、といったことを伝えても、仕方がないのかもしれないけれど、飲み込みが異常に悪い。
ツメが伸びたというので、ツメを切った。
気をつけていたし、これまではそんなことはなかったのに、ものすごく痛がるので、途中であやまって、やめる。
午後4時30分頃にトイレへ。
午後4時50分にもトイレへ向かった。
親戚からいただいたスリッパを履いているのだけど、ちょっと傾いたように見えて、少し不安になる。
午後5時20分に、またトイレへ行った、
午後5時35分から食事をして、20分ほどで終わった。かなり順調に食事ができたと思う。
トイレは頻繁に行くので、その後も2回ほど行っていて、2時間ほどで5回も行っていて、それは本当に尿意があるかどうかも分からず、ちょっと心配にもなるのだけど、食後に病室に来てもらったスタッフの人には、「トイレは1日で12回」と答えている。
覚えていないのかもしれない。ここのところ、毎回、同じ数字になっている。
午後7時に病院を出る。
病院のバスに乗るとき、病棟で母がお世話になっているスタッフの方が、「マフラー似合いますね」と言ってくれた。これは、母が、病院の中で編んでくれた黄色をベースにしたものなのだけど、母一人では全部ができずに、周囲の方々の助けを借りてできたものだから、皆さんの気持ちがこもっていると思っているので、そう言われると、うれしかった』。
網棚
いつもよりも手前の駅で止まるという、少し変則的な電車に今日も乗る。
網棚に、数枚しかない新聞があって、それを拾って読む。タモリの写真。テレビ・ラジオ欄。そこに知らない放送局の名前がある。金曜日じゃないのに「タモリ倶楽部」をやっている。
静岡新聞だった。ここは神奈川県だけど、この電車は静岡から走ってきている。
他のページに人物の写真があると、ほとんどに「静岡県○○市◯◯町出身」というキャプションが入っていた。
(2001年12月25日)
それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。
だが、2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。
2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得できた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。
2023年12月25日
天気がいい。
今日も洗濯ができる。
空は青いけれど、なんとなく冬っぽく感じる。
庭の柿の木は、葉っぱがすっかり落ちて、最後に2つだけ柿の実がなぜか残っていたのだけど、一つが鳥に食べられ、一つだけが残っていた。
その柿の実も、すっかり食べられて、ただの枯れ木になっていた。
介護相談
今日は、月に1度の「介護相談」のボランティアの日だった。
月に1日は、ボランティアをしようと決めてから、10年くらいが経った。
自分が住んでいる地域には、家族介護者への心理的支援の相談窓口は存在しないので、その窓口ができるまで、ボランティアをしようと思って、このボランティアを始めたのが、2013年のことだった。
(イメージしているのは、こうした窓口↓です)。
それから10年が経つけれど、地元に介護者の相談窓口はできていない。
その一方で、ずっと私がボランティアで、「介護相談」の場所として利用させてもらっていたカフェが、最近になって、都合により休んでいる状態なので、これまでのボランティアの形式とは変えなくてはいけなくなった。
今のところ、次の固定された場所を見つけることができないので、新規の相談は受け付けることができず、これまで相談を利用してきてもらって、継続利用を希望する方だけの「介護相談」を続けている。
今日が、その日だった。
相談が終わって、帰る頃には、空は暗くなってきた。
できるだけ早く、こうした相談窓口が、行政によってきちんと設置されることを望む気持ちは、ずっと変わらない。
全国の市区町村にその窓口が設置されることを、個人的には無理と分かりつつも、約10年ずっと目標にしてきて、それは、来年も変わらないと思う。
(他にもいろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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