「介護books セレクト」①『ボクはやっと認知症のことがわかった』 長谷川和夫 猪熊律子
これまで「介護books」(リンクあり)として、いろいろな環境や、様々な状況にいらっしゃる方々に向けて、書籍を毎回、複数冊、紹介させてもらってきました。
前回で、自分の能力や情報の不足を感じ、これ以上は紹介できないのではないか、と思い、いったんは「介護books」を終了します、とお伝えしたのですが、それでも、紹介したいと思える本を読んだりすることもあり、今後は、一冊でも紹介したい本がある時は、お伝えしようと思いました。
いったんは終了します、とお伝えしておきながら、いろいろと変えてしまい、申し訳ないのですが、よろしくお願いいたします。
(介護離職をしたあと、家族介護者への心理的支援を目指し、臨床心理士になった私の経歴は、ここをクリックしてもらえれば、概要を理解していただけるのでは、と思っています)。
「認知症の第一人者が認知症になった」
最初は、テレビ番組でした。
この記事を読んでくださっている方ですと、おそらくはご覧になった方も多いとは思うのですが、NHKのドキュメンタリーです。
まずは、この取材の機会を許可して、ご自身の状態を記録させた勇気や信念が素晴らしいと思いますし、真似できないことだと感じました。その1年間という時間での変化も含めて、この映像はとても貴重なものとして、これから時代が進むほどに価値が高まるという印象でした。
今まで家族としても、認知症かどうかの時に、ほぼ必ず、医師から検査されるのが「長谷川式」で、臨床心理士になる前から、その名称は知っていましたから、その開発者である長谷川医師は、私にとっては「歴史上の偉人」でもありました。
このテレビ番組の取材を許したのは、認知専門医の第一人者としての責任という意味もあるかもしれないと思いながら、見ていました。その途中では、画面の真ん中に映る機会は少なかったのですが、長谷川医師の介護をされている奥様や、娘さんといった家族介護者の方々のご様子が気になり、勝手ながら、特に時間がたつほどに、疲労が蓄積されていないだろうか、といったことは気になりました。
同時に、この撮影や取材はとても意味があることとはいえ、そのことによって、ご家族にとって、かえって介護の負担や負担感が増えることはないだろうか、といったことが気になりました。
それでも、ご家族にとっては、そんな想像自体が失礼なことかもしれないとも思います。そして、勝手な考えで、これも失礼で迷惑だと思うのですが、次の番組は、ご家族を完全に中心にすえて、家族介護者のドキュメンタリーができてこそ、長谷川医師の認知症の研究は、本当の意味で完成するのではないか、とも思いました。
「ボクはやっと認知症のことがわかった」 長谷川和夫 猪熊律子
これまで認知症当事者の方々の貴重な記録は、もう随分と出版され、当然ですが、人によって症状の度合いや、進行状態や、その時の気持ちなどの違いも明らかにされてきて、それぞれとても貴重な記録だと思っています。
それでも、時々、医師の方々が、どれだけ、そうした貴重な記録を読んでいるのだろうか、といった気持ちがありました。それは、研究熱心な方ほど、論文を読むことはあっても、一般書籍はあまり読まれないのではないか、と思っていたからです。
今回、こうして認知症専門医の第一人者の方が、当事者としての著作を出してもらったことで、間違いなく、医師の方にも読んでもらえるようになるのではないか、という思いになり、そうした意味でも、認知症の啓発にさらに大きく貢献するのは間違いないと思いました。
貴重な言葉の数々
「認知症になったことを隠したがる人も多いのに、なぜ公表したのですか」という質問もよく受けます。
それはやはり、認知症についての正確な知識をみなさんにもっていただきたかったから。認知症の人は、悲しく、苦しく、もどかしい思いを抱えて毎日を生きているわけですから、認知症の人への接し方をみなさんに知っておいてほしかったのです。
こうした言葉も、勝手な推察は失礼ですが、専門家が当事者になってこそ書けたことではないか、と思います。
ボク自身、認知症はなったらそれはもう変わらない、不変的なものだと思っていました。これほどよくなったり、悪くなったりというグラデーションがあるとは、考えてもみなかった。だから、認知症といってもいろいろで、ボクのようなケースもあるということを、そして、いったんなってしまったら終わりではないということを、みなさんにぜひ知ってもらいえたらと思います。
そして、これまでの認知症当事者の伝えてこられたことと、共通する事も改めて、強調しています。
認知症への理解はかなり進んできましたが、それでも、認知症と診断された人は「あちら側の人間」として扱われていると思うことがあります。こちら側の人間だと思っている人たちは、あちら側の人間はまともに話ができないとか、何をいってもわからないなどといったりします。認知症の人の前で、平気でそうしたことを口にし、人格を傷つけることが話されている場合もあります。
でも、それは間違いです。話していることは認知症の人にも聞こえているし、悪口をいわれたり、ばかにされたりしたときの嫌な思いや感情は深く残ります。だから、話をするときには注意を払ってほしいと思います。認知症の人が何もいわないのは、必ずしもわかっていないからではないのです。
さらには、具体的な対応も書かれていて、それは当事者だからこそ、伝えてもらえることだと思いました。そして、これまでの優れた介護者が行っていたことが間違っていなかったという確認もできますし、その裏付けにもなることなので、改めてありがたいことでした。
「こうしましょう」といわれると、ほかにしたいことがあっても、それ以上何も考えられなくなってしまう。それは人間としてあるべき姿ではない。だから「今日は何をなさりたいですか」という聞き方をしてほしい。そして、できれば「今日は何をなさりたくないですか」といった聞き方もしてほしい。
それから、その人が話すまで待ち、何をいうかを注意深く聴いてほしいと思います。「時間でかかるので無理だ」と思うかもしれません。でも「聴く」というのは「待つ」ということ。そして「待つ」というのは、その人に自分の「時間を差し上げる」ことだと思うのです。認知症はやはり、本人もそうとう不便でもどかしくて、耐えなくてはいけないところがあるから、きちんと待って、じっくり向き合ってくれると、こちらは安心します。
もし医師の方がいらっしゃったら、当然、心がけられているとは思うのですが、よろしかったら、ぜひ読んで欲しいところもありました。
検査を行なうにあたって、ぜひ注意していただきたいことがあります。「お願いする」という姿勢を忘れないでほしいということです。
歴史的な証言
さらに、とても貴重で意味があると思えるのは、認知症の歴史と共に、介護の歴史的な証言も、明確に書かれていることでした。
実際にその調査を始めたのは、一九七三年に聖マリアンナ医大の教授になってからです。都内に住む六十五歳以上の人を無作為に五〇〇〇人選んで調査し、対象者を絞り込みました。
六〇〇人近い方が対象になり、医者と心理の専門家がペアになって、(中略)その方々の家庭に「ごめんください」と訪れました。
その結果、1970年代から、1980年代にかけて、実際に認知症の人たちの生活をみて、こうして改めて、より広く人目に触れる一般書籍に、歴史的な記録として書かれています。少し長くなりますが、貴重なことなので、引用します。
ある農家では、馬小屋の隣の納屋に認知症の人が押し込まれていて、ワーッと声を出していました、その方は寝たきりではなく、ピンピンしていました。そんな光景をいくつか見ました。
認知症の人が独りきりで、介護する人の姿が見当たらないという家庭もありました。そばには、おにぎりが置いてあるだけです。汗をだらだら流して寝ている方もいました。部屋ではストーブがついていて、こんな暑い部屋に寝かせていたら脱水症状になってしまいますよといっても、家庭の人は、風邪をひくといけないからと、布団をばんばんかけていました。
これは都内ではなかったけれど、やはり認知症の人が独りでぽつんとお留守番をしていた家庭もありました。庭のなかをウロウロ歩き回りながら、勤めに出た娘さんの帰りを待っていました。そばには、お昼の弁当とみかんだけが置いてありました。訪問中、家族の方に「先生、何とかしてください。こんなに大変なんです」と詰め寄られたこともありました。
21世紀になり、遠くなったからこそ、専門家でさえも、昔のほうが、家族の介護力があった、などと根拠の薄い話をされることもあります。それは、明確に否定している専門家もいます。
現在、主として高齢者に対して言われる「介護」(ケア)は、大昔から存在したものではない。「介護」は、二〇世紀最後の四半世紀に至って、日本をはじめ高齢化がすすむ先進国において拡大し、可視化(今の人は“見える化”というが)、顕在化したものである。だから、介護は「今始まった事実」である。 (2008年・樋口恵子)
人生五〇年が標準サイズだった時代、家族による老人介護の期間は二〜三か月であった。今、家族の介護期間は「三年以上」が過半数にのぼる。一〇年を超える場合も十四%を超えている(国民生活基礎調査、一九九八)。少子高齢化の進展で子どもの数が減り、同時多発介護の対応に追われ介護歴述べ二〇年以上という家族も少なくない。(2008年・樋口恵子)
つまり、現在に近い方が、はるかに介護期間が長くなっているのですから、介護力が落ちている、という指摘は適切とは言えないと思います。
昔の方が介護力があった、というのは、ノスタルジーというバイアスがかかっていますし、そのように言われることで、今の家族介護者は、もっとやらねば、といった自責の念を感じざるを得ないこともあります。
だから、樋口恵子氏のように、全体的な話をしてもらった上に、長谷川医師が、現場での見た具体的な、「歴史的な証言」を書いていてくれているので、以前の方が介護力があった、という言葉が、かなり幻想であることがわかってもらえ、そのことがわかれば、今の家族介護者が、持たなくてもいい自責の念を持つ必要がなくなるのでは、と思います。
再び、「ボクはやっと認知症のことがわかった」からです。
それにしても、一九七〇年代、八〇年代当時は、家族が認知症になっても誰にもいえない、ましてやご近所には絶対にいえないというのが普通で、ご本人はもちろん、ご家族の方もたいへんだったと思います。治療薬がなく、医療は役に立つことができない。介護も、ケアの仕方がまったくわからないという時代でした。
家族介護者の行動の推測
さらには、長谷川医師の、この認知症の人の様子は、正確に描写されているのだと思いますが、このままだと、読者にとっては、家族介護者への非難の気持ちに結びつきそうでもあるので、当時の事情などを想像しながら、ここに出てくる家族介護者側の気持ちや行動の意味を、余計で失礼なことですが、私が、少し推察して、述べてみます。
ある農家では、馬小屋の隣の納屋に認知症の人が押し込まれていて、ワーッと声を出していました、その方は寝たきりではなく、ピンピンしていました。そんな光景をいくつか見ました。
今よりも認知症への(当時は痴呆症)理解がないとすると、もしも、体が元気で、認知症になってしまっていたとすれば、例えば、どれだけ丁寧に介護をしたとしても、大声を出すこともあるかもしれません。まだ介護保険ができる前です。福祉としての介護ですから、収入によって介護のサービスが受けられないこともあるかもしれません。
当時は、家政婦が1日中、認知症の人をみる、ということも可能だと思いますが(私自身、2000年当時に、そうしたサービスを利用せざるを得ない時がありました)、ただ、おそらくはその頃も、そのサービスを長期間利用するには高額すぎると思います。家族も働かなくてはいけないし、専業主婦の方がいたとしても、一日中、目を離せない方と、同じ移住空間にいたら、心身ともに持たないと思います。
大声を出したとして、それには理由があるのだと思います。ただ、21世紀の現在でさえ、認知症の方の大声に対して、うるさい、と苦情を訴える隣人が存在するのに、1970年代から80年代がどれだけ理解されていなかったのかを思うと、家族はどうしたらいいのか分からず、もしも、声を出しても迷惑でない場所があれば、そこにいてもらうしかなくなったのではないでしょうか。違うかもしれませんが、そこに至るまでの家族の葛藤もあったかもしれません。
認知症の人が独りきりで、介護する人の姿が見当たらないという家庭もありました。そばには、おにぎりが置いてあるだけです。
これは都内ではなかったけれど、やはり認知症の人が独りでぽつんとお留守番をしていた家庭もありました。庭のなかをウロウロ歩き回りながら、勤めに出た娘さんの帰りを待っていました。そばには、お昼の弁当とみかんだけが置いてありました。
こうした家族介護者の方々は、介護に専念すると、暮らしていけないということではないでしょうか。そして、働きに出た時に、今のように介護保険があり、社会で介護をする、という意識が強くなってきた時代とは違うと思います。そうしたサービスを、もし使えるとしても、使えたでしょうか。今でも、施設入所に対して反対する親族がいるというのに、1970年代や80年代は、おそらく今より介護サービスを利用することに関しての世間の抵抗や、家族介護者自身のためらいも、ずっと大きかったはずです。
そうした事情が重なり、心配だけれども働きに出るしかなく、「おにぎり」が置いてあったのは、手でつかめるものでないと、もううまく食べられなかった可能性があります。弁当とみかんだけ、という描写がありますが、でも、そこに味噌汁などの液体があったら、こぼしてしまうかもしれません。その娘さんは、そうした経験から、そうした最低限の用意をして、出かけざるを得なかったかもしれません。
汗をだらだら流して寝ている方もいました。部屋ではストーブがついていて、こんな暑い部屋に寝かせていたら脱水症状になってしまいますよといっても、家庭の人は、風邪をひくといけないからと、布団をばんばんかけていました。
私も似た経験があります。
義母を介護していて、義母が90歳くらいの時、風邪をひきました。
その時は、高熱が出て、車イスで病院に連れていく時に、そこから落ちそうになるくらいフラフラしていました。医師には、この年齢でこれだけの熱は普通は出ないんですが、ということと、もし、次にこういう高熱が出ると命に関わりますから気をつけてください、と言われました。
幸い、その時は熱も下がり、それから10年以上も生きてくれたのですが、それからあとに、風邪に対して、たぶん周囲からみたら、神経質なほど、気をつけるようになりました。
本人も体温を感じる感覚がどうしても鈍くなってきてしまい、認知症になってからは、特にその傾向が強くなり、だから、本人がくしゃみをすると、布団をばんばんかけていました。本人は「暑い」とも言う時もありましたが、くしゃみがおさまるまでは、怖くて、そうしていました。
私は、義母の高熱を出した時の苦しそうな表情を思い出し、もし、再びそうなったら、あの時よりも、歳をとっているから、本当に、あの苦しみの中で死ぬのではないか、と怖くなり、義母の体の冷えには敏感になりました。もちろん、この頃には脱水症状にも気をつけるべき、という知識は一般化していましたから、本人は、いらないと言っても、なんとか毎日、水分を一定以上とってもらうようにはしていました。
1970年代や80年代は、たとえば、夏の暑い時に、水をとると、かえって体がだるくなる、といった俗説などもあり、真夏の部活動の練習中に、水をとるな、などと言われていた頃ですから、脱水症状の知識が広く行き渡っていたとも思えません。そうしたこともあり、私は、個人的には、この布団をばんばんかけていたご家族を責められません。
貴重な評価や行動
そして、「ボクはやっと認知症のことがわかった」には、デイサービスに対して、とても貴重な評価も書かれています。
利用者としっかりコミュニケーションをとっている姿を見て、これはたいした組織だなと思いました。日本のケアは、こういう方たちの努力の上に成り立ってきたのだなと実感し、こうしたサービスを上手に利用することの大切さを、当事者になって感じたのです。
施設の評価は、第3者機関の評価が義務付けられていることもあり、家族を介護している時に、そうした評価を書くこともありました。その時は、項目数も多いため、利用者本人に聴きながらも、結局は家族が評価せざるを得ない部分も多いので、こうして専門医でもあり、当事者でもある著者のような方から、こうして正当な高評価をしてもらえれば、それは、今後、介護の専門家の待遇の改善や、介護職の社会的な地位の向上にも、地道に効いてくる可能性もあるので、ありがたいと思いました。
さらには、「認知症になったご家族に、運転をやめてほしい」という方にも、貴重な行動の言葉があります。
認知症になったとしても、いろいろなことにチャレンジするのはいいことだし、可能だと思う、という認知症の当事者にも希望をきちんと伝えながらも、一方で、こうしたことも断言してくれています。一度、運転での小さな失敗があり、著者はすぐに決断しました。勇気が必要な行動だと思います。
ただ一つ、よくないこと、決してやってはいけないことがあります。それはクルマの運転です。これだけは絶対、やめたほうがよい。事故を起こして、人を傷つけたらたいへんです。
(中略)
思い切って運転免許を返納しました。
もう一つ付け加えるならば、著書も、本来ならば、一人で書き切りたいところだと思いますが、おそらくは著書としての質をあげるためにも、以前から知っている、認知症のことにも詳しい新聞記者と共著者としているところも、そして、そのことを、きちんと表に出していることも、この著書への信頼性を、さらにあげていると思います。
この記事を読んでいただいている方だと、どなたにもおすすめできますが、もしも、認知症当事者の方の著書を読んだことがない方がいらっしゃったら、最初の一冊として、特に、おすすめです。
(他にも、いろいろと介護について書いています↓。クリックして、読んでいただければ、ありがたく思います)。
「介護の大変さを、少しでもやわらげる方法」⑨人とのつながりを絶やさないようにする。
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