「家族介護の大変さとは何か?」を改めて考えると、「主体性を譲り渡すこと」も大きい要因なのではないか、という仮説が加わった。
今も、介護殺人事件や心中事件は、大幅に減少していることはないようです。
介護殺人・介護心中事件
それは、とても悲しいことですが、介護保険が始まってからも、その頻度が変わっていませんから、とても大きな問題だと、ずっと思っています。
この数字は2023年のもので、すでに少し古くなっていますが、その後も、事件は発生していて減少しているという印象はほとんどありません。
そして、2024年では高齢者虐待の件数は過去最多になってしまいました。
ただ、介護殺人に関する研究をされている湯原教授が、「全国の報道機関が報じたものを集計」しているように、行政機関などが、公式に「介護殺人・介護心中」として統計をとっていないことも、こうした事件が、とても重大なこととして社会に知らされない要因の一つとなっているのではないか、と思うのですが、いかがでしょうか。
どちらにしても、介護殺人、介護心中を少しでも減らしたいという思いは、私にもあり、家族介護者への個別な心理的支援である「介護者相談」を、ある区役所で始めることができ、10年を超えましたが、私自身の微力を感じながらも、こうした介護者の支援をさらに充実させないと、こうした事件を減らすことは、とても難しいと思っています。
私は、臨床心理士・公認心理師の越智誠と申します。元・家族介護者で、現在は、家族介護者の心理的支援を続けています。
介護の何が大変なのか
この「家族介護者支援note」を読んでくださっている方には、何度も書いてきたので繰り返しになり申し訳ないのですが、家族介護者の大変さ自体が、まだあまり理解されていないように感じています。
こうして、重要なことは何度も伝え続けることも大事だと最近、よく思うようになりましたので、今回も繰り返しがあるかもしれませんが、お伝えしようと考えています。
よろしくお願いします。
昔から、身体的な介護の大変さは語られてきました。さらには、認知症介護の過酷さも知られるようになってきました。
そうした変化は、家族の介護が、色々な意味で閉じられた中で続けざるを得ない時代に比べたら、家族介護者にとっても、気持ちの負担が減りやすい状況になっているのは間違いないと思います。
ただ、実際には、まだ「介護をしないとわからない」という言葉に象徴されるように、介護をしている当事者にとっては、相手が専門家であっても、(私自身が介護者であったときも)時々、絶望的に理解されないという思いを抱くことが、少なくありませんでした。
そのことは、介護者支援をする立場になった現在でも、それほど変わっていないように思います。
ただ、何が「介護をしないとわからない」のかは、当事者同士では通じることであるのですが、それ以外の人たちに、どうして伝わらないのかといったことは疑問でもありました。
臨床心理士になるために、介護をしながら40代の後半になってから大学院に通い、修士論文のために、あらためて11人の家族介護者の方にインタビューを行い、それをGT Aという、かなり時間のかかる分析を行い、考察もしました。(こうした行為は、どこか偉そうだという引け目のようなものはありましたが)。
そこで、自分が介護者であると、返って気づきにくいのですが、家族介護者に共通する「介護環境」が、介護者の大変さにつながっているのではないかと考えました。
それが「3つの介護環境」です。
3つの介護環境
これは、おそらく私以外には、まだ誰も言っていなくて、同時に世の中に「常識」として広まっていないので、自分の力不足も感じています。
ただ、同時に、すでに10年以上前に、当時は学生として考えたことは、その後、実際に「介護者相談」の経験を積んでいく中でも、特に支援者であるならば、この「介護環境」を前提にするのは重要であるという実感も変わっていません。
これも、これまでこのnote を読んでくださってきた方には、ご存知のことだとは思うのですが、あらためて紹介します。
それぞれについて、もう少し詳しく説明します。
これは当たり前のことのようですが、特に専門家からは見えにくい点かもしれません。
介護前の30代の自分もそうでしたが、介護ということは意識しながらも、まだ大丈夫ではないか、親が高齢であっても、全員に介護が必要になるわけではない。それよりも、日々考えることは、やるべきことはたくさんある。
そんなことを考えていて、だから、いやでも介護に直面し、誰も他にいないので自分がやるしかない、という時は、突然やってきました。
介護の専門家と言われる方々は、普段から情報も知識も豊富ですので、考えにくいかもしれませんが、介護は、通常生きている資本主義の世界からは、あまり見えない分野です。
ですから、以前よりは減っているかもしれませんが、何も知らないままに、介護を始めなくてはいけない人は、今でも少なくないと思います。
それは、例えとしては不適切かもしれませんが、災害に巻き込まれるような感覚に近いのではないかと考えています。同時に、心理的には「危機」といわれる状態といってもいいのではないかと思っています。
それは、精神的なバランスを失ってもおかしくないような「環境」であり、基本的には心理的な支援が必要なはずです。それくらい、あまりにも大きな環境の変化です。
もちろん、人によって違いはあるにしても、「危機」であれば、心理的な支援が必要な場合も多くなるでしょう。
ですから、時々、介護殺人事件で、介護を始めて、まだ数ヶ月しか経っていないのに、という言われ方をされることもありますが、介護が始まった時を「危機」と考えれば、最初は危険な時期だと考えた方がいいと思います。
知識や経験のある専門家であれば、もし同じ状況であっても、そこまで危機的な状況になることは考えにくく、ですから、家族介護者の感覚を共有するのは難しいとも考えられます。
今後、介護を経験する前から、介護への理解がさらに進むことも必要ですが、家族介護者となった人たちに、初期から心理的な支援をすることで、この「危機」を乗り切ることも、必要ではないでしょうか。
介護はいつまで続くのか、わからない
「突然始まった介護」で「危機的状況」になり、それを乗り切ったとしても、そこからが介護負担感の最も手強いと思われる「介護環境」があることに気がつきます。
それは、「介護は、いつまで続くかわからない」ことです。
これは、「先が見えない」という不安とは似ているようで、少し違うようです。介護の生活に慣れてくると、その作業に関しては体が覚えてきて、その分、負担感が減ることが多いのですが、この「いつまで続くかわからない」負担感には慣れることができないとも言われています。
言葉を少し変えれば、「終わりがない拘束感」と表現してもいいのかもしれません。
介護は、「先が見えない」のではなく、これまでの介護の毎日と同様に、日々がどのような作業で続いていくのは、わかってきます。さらに、その作業の負担が増すことはあっても、減ることもないのも、まず確実です。
だから、その毎日を同じように過ごす自分の姿が、無限に未来まで続くのが見えすぎてしまうようで、その怖さによって、「先を見ないようにする」のが、家族介護者の実感に近いのではないかと思います。
これは↑、家族介護者の言葉なのですが、戦時中にナチスによって、ユダヤ人というだけで強制収容所で生活せざるを得なかった心理学者のフランクルの、「終わらない負担感」についての言葉と似ているようにも思います。
まだ大学院に入る前、心理学を勉強する前に、フランクルの名著『夜と霧』を読んで、全く違う体験をしているはずなのに、とても共感をし、他の著者も読むようになりました。
そして、この「いつ終わるかわからない」ことが、「一番気分がふさぐ事実の一つ」という指摘が、特に家族介護者にも共通するように思いました。
ただ、この感覚は家族介護者の間では常識のようになっていた感触があったのですが、介護の専門家の間では、もしかすると、ほとんど実感として分かられていなかったようですし、今でも、それほど理解されていないように思います。
逃れられない拘束感
その理解のされなさの原因は、それこそ家族介護者は強制されているわけではなく、自らの意志で介護を継続しているのだから、どうして、その拘束感が続くのかが、経験していない人には、とても理解しにくいことだからでしょう。
この点については、説得力を持って伝えるには、さらに検討や研究が必要だと思ってはいるのですが、今のところは、以下の、こうした説明が精一杯ですが、お伝えすることはしたいと思います。
介護を続けるのは、緊張感の持続が必要です。特に要介護者の症状が重くなったり、認知症になってもいたら、少しでも目を離したすきに、誰が悪いわけでなくても、ケガにつながるような動きをしたりしまうことはあります。その極端に不運で不幸なこととして、いわゆる徘徊からの事故といったことがあるのだと思います。
ですから、介護をする年数が長くなるほど、大小のトラブルの経験も増え、そうした記憶によって、いっときも途切れない集中力と、緊張感が、意識しなくても継続してしまうような体質になっていくことが多いようです。
これは、介護保険導入前のことで、だから、今とは違うと考えられるかもしれませんが、介護者支援を行なっている実感から言えば、それほど変わっていないように思います。
そんな話をすると、おそらくは専門家ほどレスパイトの重要性を語るのではないかとも思いますし、デイサービスや、ショートステイなどで、介護が必要な家族(要介護者)を預かってもらい、介護者が休息を取ることは、長ければ10年を超える介護を続けていく上では不可欠のことなのは、昔も今も変わりがないはずです。
ただ、介護経験を積んでいる方ほど、実感としてわかってくるのは、デイサービスや、ショートステイなどで、要介護者を施設などに預かってもらっていたとしても、全面的に、その要介護者のことを意識しないような気持ちの状態にするのは難しいことです。
どんな時でも、どこにいても、たとえ要介護者が目が届かないどこか遠いところにいたとしても、介護者であれば、意識のどこかに要介護者のことが存在している場合がほとんどのように思います。
それは、強い責任感からくるかもしれませんし、施設に預けたとしても、少ない確率としても、転倒したりして、状態が悪くなることもあるので、どうしても気になり続けてしまいます。
この20年ほど、最初は家族介護者として、この10年ほどは介護者の心理的支援をしている人間としての実感では、それが家族介護者というものだという印象がありますし、その意識の持続と集中力があるからこそ、介護を続けられると思います。
ただ、そうした状況に関して、気持ちを切り替えたり気分転換の必要性を、介護の専門家に説かれた、家族介護者の方々も少なくないと思います。
しかし、これは、自分自身の経験や、周囲の介護者の方々の実感や、介護者支援に携わっていると、家族介護者の日常的な感覚では難しいのではと思ってしまいます。
たとえば、ショートステイなどに要介護者である家族を預けて、旅行に行ったとします。それでも、特に初日はまだ意識が介護状態から抜けず、かなり一般的な意識になるには、2日か3日くらいかかるのではないでしょうか。
その上、あまり長くその期間が続くと、逆に不安にもなりますし、もしも、かなり介護のことを忘れることができたとして、その「いつまで続くかわからない」介護の「日常」に戻っていく時に、再び、その意識に戻るときに、とても辛いとも聞くし、それは、自分自身の経験からも了解できることでした。
そうであれば、最初から、気分転換する時にでも、あまりにも介護の意識から離れない方が、一応は休息ができるし、介護生活に復帰する時の辛さが軽減されると思っていてもおかしくありません。
それは例えるのであれば、介護環境が視界も限られた水中での生活のようでもあるので、一般的な日常である地上の生活には入りやすくても、再び、水中に戻るのは、かなり苦しくなりそうです。(あまり適切でないかもしれませんが、そのくらいの違いはあるような気がします)。
ですから、ずっと意識は、要介護者に向けられた「介護モード」のままで、それをいつ解除したらいいのかわからない。だから、大げさに言えば、この介護がいつまで続いても構わないように意識をセッティングしたほうがいい。
個人的には、家族介護者の頃は、後から振り返ると、そういう意識だったと思いますし、今、現在、介護の渦中にいる人たちは、程度に差はあるものの、そうした意識を持っている方が多いように感じています。
この「いつまで続くかわからない」の大変さ、そしてその拘束感からは逃れにくいことが、介護をしていく中で、最も辛いことでもあり、その感覚を、どうすれば広く伝わるのか?ということは、これからも検討し、考え続けていかなければいけないとも思っています。
「介護者相談」の意味
このように介護で大変だった時のことを語る介護者は、この人だけではなく、思った以上に多くいるように感じています。それは、肉体的な疲労はレスパイトで軽減されたとしても、精神的な負担は、話を聞いてもらうことで少なくなるのでは、と感じている、ということかもしれません。
だから、結論を急ぎすぎてはいけないのですが、相手の話を、相手よりも理解しようとして話を聞く事。それが、認知症の介護者だけでなく、家族介護者全般に対しても、有効な支援の方法ではないでしょうか。そして、話をきちんと聞くことで、その個々の家族介護者にとって、有効な支援方法が具体的に提案できる可能性まで出てくるとも思います。
「介護者相談」を10年以上行ってきて、そのことは、本当だと思っています。
介護から解放されるとき
このことも、考えたら当然のことなのですが、介護が終わる時は、それまでずっと介護を続けてきた家族(要介護者)が亡くなる場合です。
いつまで続くかわからない。という中で生きてきて、だから、長く介護をしている家族介護者の方ほど、大げさではなく、永遠に続いてもいいような心身の姿勢になっていることが多いと思います。
それがやはり辛くて、介護中に、ふと介護の終わりを願ってしまうことがあってもおかしくありません。ただ、その時、それは、この目の前の介護をしている人が亡くなることであるのに気づき、優しい人ほど、自分は、この人の死を願ってしまった、といったようなことで、自分自身を責めてしまうことがあるかもしれません。
基本的には、介護は要介護者の死に向かって介護をしています。それは、かなり辛いこととなのは間違いなく、通常はもっと期間が限られていることが多いのですが、介護もターミナルケアと言ってもいいのだと思います。
いつまで続くかわからない、という大変さに加えて、死に向かってターミナルケアをしている辛さがあるのが介護です。
それは、想像するだけでも負担感が強いのですが、そのせいもあって、この死に向かって介護をしていることについては、無意識なのか、通常は、そのことを意識できなくなっている介護者も少なくないように思います。
つまりは、介護を続けている最中には、家族(要介護者)への意識が途絶えることはありませんが、それにもかかわらず、というよりは、介護を続けていくためには、介護の終わりが、家族(要介護者)の死であることに関しては、それは避け難いことでありながら、常に意識するには辛すぎて、介護者の意識からは普段は抜けているような印象があります。
そうした意識を持つことで、介護が続けられるという言い方もできるかもしれません。だから、それは、その外側にいる人から見たら、場合によっては不自然なほど「要介護者の死」への意識が欠けているように見えるかもしれません。
それはやや不自然に思えるほどの可能性がありますが、それは、介護者として、「いつ終わるかわからないが、その終わりは要介護者の死である」という過酷な介護環境への適応の一つと思ったほうがいいのでは、とも考えています。
こうした3つの介護環境の中で、家族介護者は生きています。それだけで負担感が大きいことは、少しでもわかってもらえたらと、繰り返しになりますが、やはり改めて考える必要があるとは思いました。
ただ、こうして家族介護者の大変さを改めて考えるために「介護環境」について振り返りながらも、それこそ、介護をしている方にとっては「常識」になっていることの要素の一つが、「主体性を奪われること」であって、それもやはり改めて考え、言葉として伝えたほうがいいことだと思いました。
元警察署長の事件
この介護殺人未遂事件は、元警察署長の起こしてしまったことで、他の事件とは違う、いろいろな見方がされたと記憶しています。
一つは、この事件を起こすまでの期間が同居してから1ヶ月未満という「短い」期間であったことと、もう一つは、警察署長という社会的な地位の仕事をしていた人が起こした事件、という見られ方をされていたこと。
それは、意外というトーンで見ていた人も多かったように記憶しています。
ただ、個人的には、こうした社会的地位が高い人ほど、介護をすることに関しては、返って困難になるのでは、と思っていましたので、実は早めの支援があれば、と傲慢かもしれませんが考えていました。
まずは、この元警察署長の方は、介護の始まりの「危機」の状況にあったわけですから、追い詰められやすい時で、そうした初期も危険だということが、もう少し「常識」になれば、とも考えています。
同時に、社会的地位がある人ほど、より負担感が増すと考えられる要素があります。それが、「主体性を移すこと」です。
ケアの「主体性」
もしかしたら介護の際に「主体性を譲り渡すこと」という言葉は、それが、どんなことであるか、具体的にイメージするのもわかりにくいのかもしれません。
ただ、これは自分自身が子育てをしたことがないので、的外れになる可能性もありますが、子育てというケアの場面でも共通するような気がします。
お子さんが誕生すると、まずは言葉が通じないと思います。というよりも初めて子育てをするのであれば、子どもが何を要求しているのか、どうすればいいのか、わからないと思います。親として自分がこうして欲しい、といった意図は通じず、とにかく、相手(まだ小さいお子さん)が望むことを想像し対応していく。
そんな状況になっているのではないかと思います。
それは、やや言葉は適切でないかもしれませんが、お子さんに、自分の「主体性を奪われている」状態と言ってもいいのではないでしょうか。
そして、ある意味では身も心も相手に預けることで、その対応はやりやすくなっていくような気もしていますが、どうでしょうか。
学童保育関係の仕事も心理士として取り組んだ経験はありますが、子育てをしたこともなく、そうした児童の臨床は専門とは言えないので、色々と違っていたら申し訳ないのですが、でも、子育てもケアの一種であり、ケアの特徴というものの一つとして、ケアを提供する相手の「主体性」を尊重し、というよりは、その「主体性」に自分の主体性を譲り渡すことが、少なくともケアをしているときには必要になると思われます。
ただ、そうした場合に、現代になるほど、かなり辛くなるのでは、と思うのは、成長していく段階では、主体性を確立するのが、とても大事なものとして推奨され、同時に、より主体的であることで、仕事の世界では有能である場合が強く、仕事の時だけでなく、主体的に動くことが習慣になっている人も多いはずで、それが子育てなどケアの場面になると、急に主体性を相手に譲らないとうまくいかなくなる。
この変化に対応するのは、普段、有能と思われる人ほど大変ではないかと思うのは、全く違う方法論の上に、よりギャップが大きくなると考えられるからです。
主体性を強くして生きることを望まれ、本人もそのようにしてきたのに、子育てといった場面では全く逆のことを要求される。それは、かなり大変なことなのは間違いありません。
介護は「主体性」を奪われること?
同様に、介護を続けていくには、主体は、要介護者にあります。
それは、ケアである以上は原則的なことではないでしょうか。
そうであれば、介護を始めたとき、それまで社会の中で重視されてきた主体性を、相手に移すことがなければ介護はスムーズに遂行できないとしても、その変化を習慣にしていくことに関しては、かなりの苦痛が伴いそうです。
まして、もし、社会的な地位が高い人の場合には、主体性が強く、どちらかといえば、周囲の人を動かしてきたことが多いでしょうから、そこから、要介護者という、大事な家族や親戚だとしても、その相手の主体性に合わせることは、まるで自分の主体性を奪われるように感じてもおかしくありません。
そこで、たとえば、元警察署長の方が、介護において事件を起こされたのですが、その事件までの時間が短かったのは、この主体性を相手に移すことの苦痛が、社会的な地位が高い人ほど、より強くなることも関係しているのかもしれない、とも思いました。
それは失礼で傲慢な仮説なのかもしれませんが、特に介護が辛くなることの理由の一つとして、少なくとも介護をしていく場面では、主体性を、要介護者に移すことが、それまで社会の中で主体性を発揮して活躍していた人ほど、その辛さの度合いが強くなる。そういった仮説は、検討の余地があると思います。
そして、そのことが前もってわかっていれば、その辛さもわずかですが、軽減される可能性があるので、まだ仮説に過ぎませんが、家族介護者の大変さの一つの要素として、主体性を要介護者に移すことがある、ということは、考えていいことだと思っています。
現時点では、まだ仮説に過ぎませんが、もし、この記事を読んで、同意や反論やご意見や疑問などがございましたら、伝えていただけると、今後、さらに介護の負担について考える時の参考になりますので、できましたら、よろしくお願いいたします。
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