『「介護時間」の光景』(228)「電話」。10.14。
いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。
(※この「介護時間の光景」シリーズを、いつも読んでくださっている方は、よろしければ、「2002年10月14日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
「介護時間」の光景
この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。
それは、とても個人的で、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。
今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2002年10月14日」のことです。終盤に、今日「2024年10月14日」のことを書いています。
(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています。希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。
2002年の頃
個人的で、しかも昔の話ですが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。
仕事もやめ、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。
入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。
だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。
それに、この療養型の病院に来る前、それまで母親が長年通っていた病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。
ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。私自身は、2000年の夏に心臓の発作を起こし、「過労死一歩手前。今度、無理すると死にますよ」と医師に言われていました。そのせいか、1年が経つころでも、時々、めまいに襲われていました。それが2001年の頃でした。
2002年になってからも、同じような状況が、まだ続いていたのですが、春頃には、病院にさまざまな減額措置があるといったことも教えてもらい、ほんの少しだけ気持ちが軽くなっていたと思います。
周りのことは見えていなかったと思いますが、それでも、毎日の、身の回りの些細なことを、メモしていました。
2002年10月14日
『今日は、いつもよりも少し遅くなった。
病院に着いたら、午後5時頃になっていた。
母に「遅かったわね---」と言われる。
そのあとに、あまり顔を見たことがない病院のスタッフの方に「弟さん?」と聞かれた。
どうやら母親が「今日は、もう少ししたら、いつもの長男ではなく弟がくる」と繰り返し言っていたらしい。そういう予定は全くなかったし、そんな話をした覚えもなかった。
まだまだおかしいところがあるんだ、と思う。
夕食は40分かかる。
そういえば、今日は、病院に着いたとき、この所は座っていたけれど、母はベッドに横になっていた。なんだかぐったりして見えた。
午後7時になって、病院を出る』。
電話
おととい、電話があった。
実家のお隣さんの方から、同級生のお父さんが亡くなったことを知る。
中学生の頃は、毎日のように一緒に学校へ通っていた時期があった。
そのお父さんの話も、聞いていたことがあった。
断片的に、いろいろなことを思い出す。
その同級生のお母さんと、私の母親も、仲良くさせてもらっていた。
一緒に出かけたことを、今の母は、どのくらい覚えているのだろうか。
今日病院を出てから、別の病院の公衆電話で、家に電話をする。
妻と話をしていたら、義母の物忘れの度合いがひどくなってきたのを知る。
今日も、午後まで家にいて、義母と顔を合わせていたのに、そのこととはあまり関係のない出来事に感じ、なんだか、かえって気持ちが重くなる。
(2002年10月14日)
それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。
だが、2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。
2018年12月には、妻と二人で在宅介護をしてきた義母が103歳で亡くなり、19年間、取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得できた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。
2024年10月14日
今日は天気がいい。
すごく気温が下がって、秋が深まってきたと感じていたら、気温が上がってきて、また夏に戻りそうな気配も漂ってきた。
季節の変わり目は、こんなに気温が上がったり下がったりするのかと改めて感心するような気持ちにもなるけれど、自分はそんなに体も強くないから、体調に気をつけないと、などと思う。
洗濯
太陽が強めに照っているし、洗濯をしようと思って、洗濯物を洗濯機に入れる。
スイッチを押すと、洗濯槽が回り始めて、何リットルかが表示され、それから、洗濯にどのくらいの時間がかかるかかも表示される。
新しい洗濯機になってから、ここから水が出るまで1分か2分かかる。
その間に太陽を見る。起きてすぐに直射日光を見ると、体内時計がリセットされる、といったことをどこかで読んだことがあるので、それをなるべくやろうと思っている。
まぶしい。
直視するのが難しい----などと思っていると、洗濯機の水が入り始める。
液体洗剤を使っていて、その投入口に、洗剤のキャップを使って、出てきた水を入れて、洗剤をムダなく使おうとしている。
米
図書館に出かけ、予約してあった本を借りてきた。
帰りにスーパーへ寄る。
お米がそろそろ無くなるので、お米売り場へ行く。
新米が流通し始めたら価格は安くなる。
そんな言葉を、テレビで、コメンテーターらしき人が自信満々に言っていた記憶がある。
3580円。3580円。5キロで、その値段の米の値段表が並んでいる。
以前と比べたら、とても高い。うちでは、5キロだと1000円台で買っていたから、とんでもなく高騰している印象になる。
その中で、3180円の米は売り切れていた。
他の米も高い。5キロで4000円を超えるものもある。
さまざまなものの値上げて、ゆっくりと生活が追い込まれていくようで、悔しく、悲しくなる。
3580円の米をいったんカゴに入れて、やっぱりやめた。まだ何日かは持つので、今度は午前中に来ようと思った。
どうして、価格が上がったままなのだろうか。
違和感
なるべく、できたらどうすればよりよくなるか?を考えるようにしている。それは、介護をしていて、どうすれば介護者が少しでも負担が軽くなるのかを考えたら、やはり、心理的支援が必要だと思ったことも、そうだった。
ただ、そのことは、いつも考えたとしても、成果が上がるわけではないから、気持ちが負けることも少なくなく、なんだか、いろいろとやめたくなるような時もある。
ただ、なんというか、もっと基本的に考えること自体を、見直さないといけないのではないかと思うと、哲学関係の本を読みたくなる。
断言できる強さがあることに感心をする。すごいことだと思う。
それは、他人事ではない。自分を振り返ることが、常に必要なのだと、こうして書かれると、改めて気づく。本当は、ずっと持ち続けなくてはならないのに。
さらにどうすればいいのか。ノウハウとは違い、もっと本質的なことを書いてくれているような気がする。
難しいことだけど、それが柔軟性ということなのだろう。
どう毎日を過ごせばいいか。とても基本的なことだけど、でも、おそらくは、日々の小さな選択への覚悟のようなものなのだと思う。
うまくいかないと、川の流れが停滞するように、ぐるぐると回っていることがあるはずだ。それでも動いているから、何かがんばっているような思いにもなるし、疲労もするだろう。だけど、そうではなく、違和感や虚無感に気づこうとすることが大事になるようだし、でも、今までと違う選択をする場合は、そこでも小さい勇気が必要になるかもしれない。
こうした原則的なことを忘れないようにするのは難しいかもしれないけれど、大事なことだ。わかっているけれど、継続するのも困難と思いつつ、少しでも実行したいと思う。
(他にも、介護のことをいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
#介護相談 #臨床心理士
#公認心理師 #家族介護者への心理的支援 #介護
#心理学 #私の仕事 #抱負
#家族介護者 #臨床心理学 #介護者相談
#介護負担感の軽減 #介護負担の軽減
#自己紹介 #介護の言葉 #介護相談
#家族介護者支援 #推薦図書
#家族介護者の心理 #介護時間の光景
#通い介護 #コロナ禍 #日常 #生活 #仕事での気づき
#臨床心理学