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『「介護時間」の光景』(218)「ほこり」。8.8.

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。

(この『「介護時間」の光景』を、いつも読んでくださってる方は、「2007年8月8日」から読んでいただければ、これまで読んで下さったこととの、繰り返しを避けられるかと思います)。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的なことで、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。

今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2007年8月8日」のことです。終盤に、今日、「2024年8月8日」のことを書いています。

(※ この『「介護時間」の光景』シリーズでは、特に前半部分の過去の文章は、その時のメモと、その時の気持ちが書かれています。希望も出口も見えない状況で書いているので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば幸いです)。

2007年の頃

 1999年から介護が始まり、2000年に、母は転院したのですが、私は、ただ病院に毎日のように通い、家に帰ってきてからは、妻と一緒に義母の介護を続けていました。

 そのまま、介護は続けていたのですが、そういう生活が4年続いた頃、母の症状が落ち着いてきました。

 そのため、それまで全く考えられなかった自分の未来のことまで、少し考えられるようになったのですが、2004年に母にガンが見つかり、手術し、いったんはおさまっていたのですが、翌年に再発し、それ以上の治療は難しい状態でした。

 そのため、なるべく外出をしたり、旅行をしたりしていましたし、2007年の2月に、熱海に旅行にも行けました。
 
 母の体調は、だんだん悪くなっていくようで、そのせいか、ほぼ毎日、病院に通っていました。本当に調子が悪いのが明らかでした。そして、5月14日に母は病院で亡くなりました。
 毎日のように病院に通う毎日は終わりました。

 7年間の「通い介護」も、終わってみれば、長いのか短いのかわからない感覚になりましたが、義母を自宅で妻と一緒に介護をすることは、変わらずに続いていました。

2007年8月8日

『今日は、月に1度の誕生日カードを作るボランティアの日だった。

 母が5月に亡くなり、ボランティアもやめようかとも思ったのだけど、今もボランティアを続け、ご家族がこの病院に入院している方々に、来てくださいと言われた。

 病院のスタッフの人によばれる。

 母がリハビリを兼ねて制作していた手さげのカバンを見せてもらった。まだ完成してなくて途中だったから、お棺に一緒に入れられたらよかった、などと思う。

 そのあと、毎日、食事を作ってもらっていた「栄養課」に行って、あいさつとお礼を伝える。

 優しかったです、と母のことを聞いて、後からじわじわと、その人たちにも声をかけている母の姿が浮かんできたような気がした。

 寂しいですか?と聞かれて、どう答えていいか分からなかった。

 病棟にも行った。

 7年も通ったのだから、顔見知りになっている入院している患者さんにもあいさつをして、話も少ししていた。

「ご飯、食べさせてくれないのよ」と言いながら、病棟の中をさまようように歩く人が、今日もいた。その人に近づき、「大丈夫よ」と笑いかけて背中をさすってあげている別の患者さんは、母が入院した頃からずっといる人だった。

 それはすごく優しい行動なのはわかった。
 それを見ていたら、泣きそうになった。

 午後5時30分頃まで、病棟で待たせてもらった。会いたい人には、会えなかった』。

ほこり

 夜中に風呂から出てきて、いったんタオルで体をふいてから、部屋で汗が乾くのを待っていた。

 自分の頭の斜め上、30センチくらいのところに、ほんの2〜3ミリくらいのL字型のほこりが浮いているのを見つける。

 といってもいつもそういうのがあるんだろうけど、意識して目の焦点を合わせると、思ったよりも大きく感じてくる。ゆっくりと天井に向かって上がって行く。それに目のピントを合わせて、追いかけていくと、部屋の後ろの光景がかすんでくる。2重に見えたりもする。

 L字型以外にも、小さい渦巻き型のほこりが、回りながら、上がっていくのも見えた。

 自分の体温のせいで温度が上がり、上昇気流が発生しているのかもしれない、と思った。

                         (2007年8月8日)


 その後も義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。

 2018年12月には、妻と一緒に自宅で介護を続けていた義母が103歳で亡くなり、19年間の介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格もとった。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。


2024年8月8日

 最近は、夕方から激しい雷雨になったりするが、毎日、暑いので頻繁に着替えるようになり、洗濯物はたまる。

 だから、今日も洗濯をして、干してから、出かける。

 最近、洗濯ハンガーが真っ二つに折れてしまい、さすがに、もう使えなくなったと思う。

 他にも故障したりする機器があって、憂うつになる。
 貧乏なので、暗くもなる。

仕事

 今日は、心理士(師)としての仕事がある。

 毎回、世の中には困難な状況にある人がいるのだと思い知らされる。

 そして、面接や相談といった場面で、わざわざ足を運んでもらった人を目の前にして、どうすれば、この人が、少しでも楽になるだろうか、といったことを考える。

 数字になりにくい仕事だと毎回思うし、使う言葉は具体的だけど、思考は抽象的な部分もあるし、場合によっては感情労働でありすぎるかもしれないとも感じる。それでも、やはり、その人のあり方みたいなものが、仕事の成果(そういう華々しいものではないとしても)にかなり直接的につながっていると思う。

 自分にとっては分不相応な気もするだのけど、そうしたことはずっと考え続けている。

ケアってなんだろう

 最近、読み始めた本が、冒頭から興味深い。

 ケア現場では「やさしくあれ」という規範あるいは倫理が幅を利かせている。スタッフがケアに困り果てて中枢のスタッフに相談にいき、「受容しなさい」と言われ、なにか釈然としない表情で現場に戻ってくる。たしかに「受容」という言葉は、ケアのすべてを言い表している。しかし、すべてを言い表す言葉は、何も言っていないのと同じである。「受容せよ」と言われて解決するくらいなら、とっくのむかしに解決していたに違いない。そうはいかないから相談にきたのだろう。「私たちだって人間なのだから、受容できないことだってある」とつぶやき、口に出さないまでもこころの中で考えているのが、手に取るようにわかる。

(『ケアってなんだろう』より)

 確かに、私自身も大学院に通っている頃、「優しくなければ、この仕事をしてはいけない」というベテランの精神科医の言葉に、すごく納得をし、そうしたことが表立って語られる世界はいいのでは、と思ったこともあるし、今も、基本的には、そう思っている部分はある。

 ただ、自分自身は優しくないと思っているので、無理に優しくしようと努力するよりは、困っていて目の前にいられる方に対して、どれだけ理解できるか、について力を尽くそうとしていると思う。

 さらに考えれば、ケアの現場で、困っているときに、優しくしなさい、受容しなさい、だけでは、とても事態が好転するとは思えない。

 だから、まだ、読んでいる途中だが、この本は対談が中心になっているのだけど、感情労働ではなく、もっと具体的な話が多くなりそうで、そういう意味では、さらに興味深い点を、いろいろな人との対談を通して、語っているようだ。

 読み終わったら、さらに紹介させてもらうかもしれません。
 そのときはよろしくお願いします。


(他にも介護のことをいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)



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