ワークショップ日記⑨~『永遠』をめぐって。「永遠であるのは私であるのではなく、私ではないのではない」~
「ワークショップ・コトバ編」は理不尽だ!
―「ワークショップ・コトバ編」、永遠シリーズもとうとう今回が最後となりました。
【永遠であるのは私であるのではなく、私ではないのではない】
ここまで、本当に長かったですよね。
〈Aさん〉 合計10回近くあったわけだから、あしかけ3ヶ月くらいだものな。最初の頃は、本当に何が言いたいのか、さっぱりわからなかった(笑)。第一、「永遠」なんて言葉、ふだんではめったに使わないしね。
〈Cさん〉 私はむしろぎゃくで、ふだん使わない言葉だから、新鮮に感じられたところがある。「永遠」って、どこか非人称的で、それでも誰もが一度は憧れる響きを持っている。もし主題の言葉が、「永遠」じゃなくて、「愛」だの「絆」とかだったら、私は早い段階で頓死していたかもしれない(笑)。
―Bさんはいかがですか?
〈Bさん〉 ワークショップを受けていたとても不思議だったのが、どんどんと気持ちがラクになっていくことです。始めの頃は、どう表現していいのかわからず、とにかく苦しかった。それが少しずつラクになって…、ちょっと違うかな、ラクになっていることに気づいた、というほうが正確かな。ラクになっていって、それをみなさんと語り合うのが楽しくなった。こんなふうになるとは、思ってもいませんでした。
本当に最初の頃は、AさんとCさんは、どうしてこんなことが思いつくんだろうと、やや焦りも感じましたしね。
〈Cさん〉 いまだから言えるけど、思いつめたようにかんがえているBさんを見て、次回は参加してくれないんじゃないかと、何度心配したことか(笑)。
〈Aさん〉 同じく(笑)。
〈Bさん〉 確かに危なかった。仕事が終わって疲れているときに、どうしてこんなに苦しまなければならないんだと、理不尽を感じました(笑)。
でも、みなさんが温かく見守ってくれたので、なんとかここまでたどり着けました。
私はすでに「永遠」を知っていた?
―では、少しずつラクになってきたBさんから、お願いしていいですか。
〈Bさん〉 はい。「永遠であるのは私であるのではなく、私ではないのではない」。なぜなら、永遠という時の流れをつくるのは自分ではないけど、永遠を感じるのは自分自身だから。
―いつのまにかBさんは詩人になっている(笑)。どういうことですか?
〈Bさん〉 永遠という時の流れがあるのだとしたら、それは自分がつくってはいないのでそれがどうなっているのかはわからないけれど、私自身はその永遠を感じることができる、ということ。
―永遠はどこのだれがつくったことなのかはわからないけれど、そもそも永遠という時の流れがあるんだということを知っているのは、それを自分が感じているからだ、ということですか。「永遠」を自分が感じていなければ、例えどこかに永遠という時の流れがあったとしても、それを知ることができないのだから、極端な話、あってもなくてもどうでもいいことになる、ということかな。
〈Bさん〉 どうでもいいとは言わないけど、そうですね。
―以前、現象学の話をしたと思うけど、Bさんの見解は現象学的にはある意味決定的な認識です。僕たちにとって「知っている」とは、知覚的に直接知ることと伝聞・推定で知ることの二つがあるのだけれど、Bさんとしては、永遠は伝聞・推定での知ということになる。ただ伝聞・推定だと言っても、それはあくまでも知覚的な直接的な知に基づいていなくては、知りようがない。わかりやすく言えば、どれほど海の美しさを詠った詩を聴いたとしても、そもそも海を見たことがなければ、その詩の意味合いや味わい深さなど知りようがない。
Bさんが言わんとすることは、永遠がどうなっているかはわからないけど、それを感じることができるから、僕たちはこうして永遠について語り合うことができるんだ、ということですね。
〈Bさん〉 そこまで深くはかんがえてはいなかったのですが(笑)、近いと思います。
竜宮城と神の世界
〈Aさん〉 どんなに美しい世界があって、それについて説明されても、知覚できない世界だったら、そもそも知りようがない。というか、説明されてもわけがわからない。
〈Cさん〉 浦島太郎の竜宮城とか。
〈Aさん〉 そうそう
〈Cさん〉 でもそうなると、クリスチャンの方はどうやって死後の世界、神の世界を知ることができるのか、という疑問が湧くような気がする。
〈Aさん〉 それは…、また後にしましょう(笑)。残り時間のすべてを使っても、説明しきれないかもしれない。まぁ、でも、一言で言ってしまえば、それが信仰です、としかいいようがない。
「私」へのこだわりが薄くなっていくということ
―では、Aさん、お願いします。
〈Aさん〉 「永遠であるのは私であるのではなく、私ではないのではない」。なぜなら、私がどこにいるのか、私にはわからないから。
―村上春樹の『ノルウェイの森』の最後シーンみたいですね。“あなた、今どこにいるの?”と恋人・緑に電話で尋ねられて、ワタナベくんは電話ボックスで“僕は今どこにいるのだ?”と茫然とする。そして、“僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた”で、この物語はしめられる。
〈Aさん〉 ああ、ありましたね。でも個人的には、あまり村上春樹は好きじゃないけど。
〈Cさん〉 私は、村上春樹は好きだけど、『ノルウェイの森』はあまり好きじゃないな。なんとなく、村上春樹的じゃないような気がして。
―僕も、初期のものはよく読んでいた。一番好きな作品は『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』かな。ここが頂点として、本音を言うと、あとはもうついていけなくなった(笑)。
話を元に戻します。Aさんの返答ですけど、もう少し説明してください。
〈Aさん〉 えーとですね、なんというのかな、このワークショップを重ねていく中で、私がどうだとか、そういうことはもういいのかな、という気持ちになりまして。
「永遠と私」というテーマで何度もかんがえていくうちに、永遠よりも、「私」って何だろう、そもそも「私」って何が実体なんだとか、むしろ「私」についての疑問が湧いてきた感じなんです。
やはり若いときは、自分ってなんだろうとか、自分は何者になれるのだろうとか、とにかく私とか自分へのこだわりが強く出ていた。就職してからも、やはり周囲に引けを取らないように必死でしたし。
ただこのークショップで四句分別を知って、特にこの最後の文についてかんがえていくと、なんというか自然に「私」へのこだわりが薄くなっていくというか…。
確か、どこかで最後の文と絡めて、仏教の「空」について話されていたときがあったと思うのですが、「空」ってこんな感じなんですか。
空と中道
―では、ここでもう一度、「空(くう)」について話しておきますね。何度もお伝えしますが、僕の理解している空の教えは、あくまでも龍樹の『中論』がベースになっています。なので、全仏教共通の理解とは思わないでください。
「空」とはこれだという言い方よりも、すごく単純に言ってしまえば、僕たちが“○○は△△だ”と何かを決めつけようするとき、そこにあえて“○○は△△ではない”と、否定の文をつくっていくという、いわば、無限否定の運動みたいなことだと思うんです。例えば、“私はバカだ”と決めつけようとするときに、そこにあえて“私はバカではない”という文をつくっていく。ぎゃくに、“私は優秀だ”と決めつけようとするときに、“私は優秀ではない”という文をつくっていく。
〈Cさん〉 文をつくっていくって、どこに?
―頭の中でいいですよ。もちろん紙に書いてもいいし。
〈Cさん〉 自問自答みたいな感じで?
―でも、その理由をかんがえるんじゃないんです。“私は優秀だ”と決めつけようとしたら、心が落ち着くまで、“私は優秀ではない”と唱え続ける感じかな。
〈Cさん〉 そうやって、心を落ち着けるのか。私はバカだと落ち込んでいるときは、私はバカではないと唱え続け、私は優秀だといい気になっているときは、私は優秀ではないと唱え続ける。そして、自分の心が激しく落ち込んだり、いい気になったりするのを防いでいく。
―僕の理解している仏教は、あくまでも人生に絶望した人間たちへの生活改善運動。
「空」というのも、その方法論のひとつ。だから、シンプルじゃないと意味がない。
この前、ある人のエッセイを読んでいたら、ある住職に“「空」とは何かですか”と尋ねたら、空(そら)に指をたてて、“空(そら)のようなものです。何もないけど大切なものだ。そういう人間になれということです”と説明され、感銘を受けたと書いてあった。もちろんお話としては面白いんだけど、大乗仏教の始祖である龍樹本来の「空」の教えは、むしろそんな理想論に踊らされることを戒めています。その住職のお話をもし龍樹が聴いていたら、“「空(くう)」とは空(そら)であるのではなく、空(そら)ではないのではない”と、住職に説いていたんじゃないかな。
〈Aさん〉 〈Bさん〉 〈Cさん〉 (笑)
ーだって、この一本の道を渡れと伝えたら、それは中道にならないでしょう(笑)。空の教えとは、中道を歩む旅。先ほどの例で言えば、私はバカでもなく、優秀でもない道を歩く。
私はバカだ、と、優秀だ、のあいだ道
〈Bさん〉 私はバカだと決めつけると、それはそれでなんとなく開き直るわけじゃないけど、それで自分を納得させて、心を落ち着かせることもできると思いますけど。
―でも、私はバカだと公言している人ほど、何かの拍子に他人から称賛されたりすると、私はじつは優秀なんだと、一気にイイ気になってしまうこともあるんじゃないの?
〈Bさん〉 耳が痛いです(笑)。
〈Aさん〉 私も心当たりが多すぎますね(笑)。そうすると、私の経験したことと、「空」はそんなに外れてはいなかったということですかね。
―と、思いますよ。そうやって、私へのこだわりを、なくすことなんて所詮できないわけですから、薄くしていくというのがとても正しいんだと思います。
では、最後にCさん、お願いします。
始まりと終わり、そして「私」
〈Cさん〉 「永遠であるのは私であるのではなく、私ではないのではない」。なぜなら、入って出ていく繰り返しをただ俯瞰しているだけだから。
ーAさん、Bさんともにポカンとしていますので、もう少し説明をお願いします(笑)。
〈Cさん〉 (笑)。えーと、もしも始まりと終わりがあるとすれば、それが繰り返しているだけなんじゃないかと。
―始まりと終わりが、入って出ていく、ということ?
〈Cさん〉 ええ。感覚的な印象だと、始まりと終わりの繰り返しは、入って出ていくという、その繰り返しとして現れてきますね。
〈Aさん〉 それを私は俯瞰している、と?
〈Cさん〉 もはやそれを「私」と名付ける必要があるのか、どうか(笑)。
〈Aさん〉 なるほど。俯瞰しているのはわかるけど、それが果たして「私」といえるのかどうか、それはわからないということになるのかな。
〈Cさん〉 というか、俯瞰しているときは、そこでいちいち「私」なんて意識しないという感じかな。結果的にそれは「私」だったといえるけど、その「私」と名付けている、その存在をあえて「私」と呼ばなくてもいいんじゃないか。まぁ、呼びたければ、呼べばいいだろうけど。
〈Bさん〉 え、じゃあ、それは誰なんですか?
〈Cさん〉 うーん。だから、それを「私」というのであれば「私」で良いし、「私」ではない、となれば「私」ではない、で良いと。
〈Bさん〉 いまなんかCさんの姿が、神々しく見えました(笑)。
〈Cさん〉 Bさん、疲れてるんじゃないですか(笑)。
―とても面白い対話でしたね。こういう対話こそ、まさにこのワークショップの目指しているところです。
とりあえず、これで『永遠をめぐって』のセッションを終えたいと思います。
また次回、お会いできることを楽しみにしています。